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誰からも愛されるフェルメール 凡百の画家と何が違うのか?

アートな土曜日

2018/12/22
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光とその効果の実験を繰り返した

 さらには、フェルメールと他の画家では、絵画に求めているもの、描き出そうとしていたものがまったく違う。他の画家たちは当時の街の様子、室内のしつらえ、人物の佇まいなど、目の前にある事物をできるだけ臨場感たっぷりに描こうとしている。画家としては当然の態度だ。

「真珠の首飾りの女」

 フェルメールも、身の回りのものを題材に描いたところまでは同じだが、画面に表そうとしたのはどうやら事物そのものではない。彼が着目したのは、その場に降り注ぎ、わたしたちに事物の色やかたちをありありと見せてくれる光だった。

 光がこの世界をどう照らし、どんな効果をもたらすか。そこにじっと目を凝らし、画面のなかに留めようとしているのだ。フェルメールにとって絵画を描くとは、光とその効果に対する実験と、その結果報告だったのではないか。彼の作品に室内画が圧倒的に多いのは、そこが彼にとっての実験室であり、実験の条件をそろえるのに適していたからだろう。

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 フェルメール絵画では、左側の壁に採られた窓から柔らかい光が差し込み、そこかしこに置かれた生活用具や衣服、人の顔面が優しく照らされ、じんわり輝く。その様子を、彼の筆は緻密に丁寧に掬い取り、何百年もの時を経たわたしたちのもとへ届けてくれている。

「リュートを調弦する女」

 フェルメールの絵画が、他の同時代作家とは異なる輝きを有しているのは、光そのものを画面に描き込んでいるからだ。画面が驚くほどの静けさを湛えているのは、音が届くスピードよりもずっと速く進む光を描いているからである。その絵画自体がなぜかかけがえのない存在に感じられるのは、そのときその場所にのみ降り注いでいた光を捉えているからだし、瞬間性と永遠性を同時に伴っているのは、この世の原初からあって決して消えない光という存在が、その絵の中に閉じ込められているからである。

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