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豊洲騒動の“デジャブ感”とは 日本橋→築地移転も大モメだった歴史

「魚河岸一つにさえ、30年もグズる東京」――100年前の「朝日新聞」

2018/12/30

 今年の国内の「食」における最大のニュースと言えば、東京・築地にあった中央卸売市場が(散々モメ上げた末に)ようやく豊洲へと移転したことだろう。タイミングや移転先、移転自体の是非はさておき、1980年代、築地地区の再開発案が持ち上がった当時から、移転問題はさまざまな形で俎上にのぼってきた。結局、豊洲に移ったのは、築地の移転計画が持ち上がってから30年以上が経過した2018年秋のことだった。

10月11日にオープンした豊洲市場 ©AFLO
閉場前に撮影、築地市場を行き交うターレー ©文藝春秋

「築地以前」、日本橋に魚河岸があったことをご存知ですか?

 歴史は繰り返す。彼の地に魚河岸が移転したのは、ほんの100年足らず前の1923(大正12)年のこと。それまでの「築地」は、江戸時代に造成された埋立地であり、明治に入ってからの外国人居留区であり、帝国海軍の施設があった土地だった。

 そもそも東京の魚河岸は、江戸幕府開府間もない寛永年間(1624~1645年)に水運を利用して江戸城に魚を納めた佃島の漁師や商人が、その帰りに余った魚を日本橋周辺で販売する許可を得たことに端を発する。河の岸にある魚市場だから魚河岸。彼らは戸板状の「板舟」に魚を並べ、商いに勤しみ、近隣の小網町のあたりに住まう者もいた。それから約300年間に渡り、日本橋は河岸として発展していった。

日本橋からの「転居資金」に苦慮する漁業者

 しかし、時代は変わる。明治5年に起きた大火で築地から銀座にかけて町が灰燼と化したことで、明治政府は首都の改造に本腰を入れることになる。首都における大火や疫病(当時はコレラの流行が社会問題化していた)は「富国強兵」にとってはリスクになる。防災、防疫のためにも道路の拡幅や下水の整備が必要となり、公共のための組織や施設も再編成と移転を迫られることになった。日本橋界隈で隆盛を誇った魚河岸も例外ではなかった。

 日本橋の魚河岸市場の移転問題に触れた報道としては、1888(明治21年)年10月2日付の朝日新聞に「魚河岸の事」という記事がある。「市場移転の事も久しきものなるが此の度市区改正条例の発布あり……」という書き出しで始まるこの記事は、1888年の時点で市場移転が長きに渡って問題視されてきたことを示している。では、100年前の市場移転の経緯はどんなものだったのか。朝日新聞の報道を土台に見ていこう。