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高田純次、笑いを語る「たけしさんが笑うか。それが問題だった」

高田純次「適当じゃない」インタビュー #2

2019/01/01
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即興劇と同じで、レポーターも一つの役柄

―― それまでアングラ劇団で演劇をやっていた高田さんが、テレビではコントを要求されるわけですよね。演劇からお笑いになっていくことに抵抗はありませんでしたか。

高田 僕の場合は、演劇といっても東京乾電池しか知らないから何が正解かは分からなかったよね。だから何が演劇で何がお笑いなのか、その辺はこだわってなかった気がしますよ。

―― バラエティに出ることに対して、特別に構えることもなかったですか?

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高田 全然ないですよ。そもそもバラエティが色物って呼ばれてて、ギャラも少ない時代だったし。僕らのやってることが、お笑いとかバラエティという言葉でくくれない時代だった。

 

―― そういった中で、高田さんが一つのスタイルを確立されたのは、『元気が出るテレビ』のレポーターではないかと思うのですが。

高田 そうだね。即興劇と同じで、レポーターも一つの役柄を作ってやるしかないって考えてやりました。

―― 高田さんがレポーターとして登場するときのインパクトを覚えている人は多いと思います。メチャクチャなメイクをした高田さんが、カメラの下からニュッと出てきたり……。

高田 あれはまさに即興芝居なんですよ。あえて言えば乾電池時代の筋肉みたいなものが役に立ってたのかもしれない。でも毎回、ディレクターと一緒になって、出のシーンをどうやるかに四苦八苦してました。いつもはカメラの下から出るから、反対に上から出たらどうなるかな、でもクレーンに吊るされるのはキツイよなとかね(笑)。

聞き手は演劇史研究者の笹山敬輔さん(左)

たけしさんが笑うかどうか、それが問題だった

―― そもそも、どうしてあんなレポーターのキャラクターを確立されたんですか。

高田 『元気が出るテレビ』は、レポーター陣がたけしさんや松方弘樹さんと一緒になってVTRをスタジオで観るわけです。これがキツイのよ。自分のが面白くないと、居場所がないからさ。それで、とにかく最初に一発笑わそうというので、みんな必死に考えたんだよね。視聴者の前に、たけしさんが笑うかどうか、それが問題だった。

―― では、たけしさんが笑ってると一安心。

高田 そうだね……、まあ、俺のは九割九分面白かったんですけどね(笑)。

―― 番組は11年半続きますから、ロケの数もすごいですよね。

高田 毎週土日に3本のネタを撮ってたから、500~700本くらいやりました。でもね、初めてのロケはボツになったんですよ。浅草でのロケで、ヤクザの親分と若衆が出たの。それが面白くてスタジオでも流したんだけど、日テレに脅しの電話が入ったらしくて、結局は放送されなかった。

 

―― 衣装もそうですが、メイクもずいぶん凝ってましたよね。あそこにアングラ演劇の影響はあるんですか?

高田 アハハ、どうだろうね。僕は舞台ではメガネ役者でね、いつもメガネをかけてたんですよ。メガネをかけると人が変わるように感じるから。素顔を出してやるのが、どこか恥ずかしかったんだろうね。だから、その延長で顔にいろいろ描いたりするようになりました。

―― 自分の中でスイッチを入れるような感じ。

高田 東京乾電池のときも、公演前にみんなで刈り上げにしてたんですよ。渋谷の駅前にある床屋が、1000円で刈り上げてくれたの。それで気合いを入れるんです。YMOのテクノカットが流行る前だよ。『笑ってる場合ですよ!』のときも、最初の1年間は「かりあげ高田」って名前でやってました。でも、それじゃあ売れそうもないんでやめましたけど。