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連載ことばのおもちゃ缶

究極の言葉遊びは「短歌」(2)言葉しかなかった。

2016/01/24

genre : エンタメ, 読書

note

 私がずっと一人でやっていた言葉遊びは、基本的にメッセージ性が薄い。言葉遊びを通じて何かを言おうとはしていない。それよりも偶然生じた言葉の組み合わせや運動を見てゲラゲラ笑うという構造になっているものが多い。飛び飛び連想ゲームがまさにそうだし、すでにある言葉のなかから別の言葉を見出すアナグラムもそうだ。そして実は回文だってそうなのだ。回文は言葉の側の要求から生まれているもので、自分の思想とかを込める余地が全くない。「省くがいい医学部は」って回文を作ったことがあるけど、その文面の意味通りの思想信条なんてかけらも持ってない。

 私は子どもの頃、作文の授業が嫌いだった。特に嫌いだったのは「自分の気持ちを自由に書いてください」というものだ。遠足とか運動会の感想とか、そんなもんに自分の気持ちなんてねえよ。私の小学生時代の作文を取り出してみると、分刻みで時間を記したのちに「よこはまのしんせきがきた」などと感情の動きに全く触れない短い一文が添えられているだけのものである。教師は「分単位でしっかりおぼえているんですね」と苦しい褒め方をしていた。昔の私の作文は、文豪や一流スポーツ選手の少年期の意識の高い作文よりも、異常犯罪者の文集のほうにはるかに近い。

 今思うと「自分の気持ちを自由に書いてください」と言い放っていた教師は、感情を伝達する手段としてしか言葉を捉えていなかったのだろう。そして人間は生まれつき自らの感情を言葉で自由に表現する能力があると思い込んでいたクチなのかもしれない。道具としての言葉の使用法を教えられる前からいきなりそれだったので、精神状態を疑われるようなタイプの文章しか書けなかった。見たこともない外国のカードゲームを渡されて、「さあ遊べ」といきなり言われている気分だった。

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 私は今、歌人という肩書きで執筆活動を行っている。ノートに一人でクロスワードパズルを書いていた頃には、そんな肩書きが自分の名前に付くとはかけらも想像していなかった。私が本格的に短歌と出会って自分でも作り始めていったのは、それから5、6年は先になる。けれど、結局のところ私は「言葉遊びの最終進化形」として今日に至るまで短歌をいじくり回しているような気がする。私は「日本の伝統文芸」としての短歌に興味はない。五音と七音を組み合わせた結果生まれる、きれいだったりファニーだったりする響きに酔いしれたいだけだ。

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