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連載ことばのおもちゃ缶

究極の言葉遊びは「短歌」(2)言葉しかなかった。

2016/01/24

genre : エンタメ, 読書

note

 短歌や俳句の美点を解説しようとしている人がよく、「制限の中で精一杯工夫して美を見出す精神性」なんてことを言ったりする。ときにはそれを「資源の限られた日本」の国民性と結びつけたりする人までいる。そう解説する人はたいてい、自身は歌人や俳人ではない。実際に作ったことのない人間のたわごとだと思う。言葉が先天的に自由に使えるもので、音数が定められている状態は「制限」や「束縛」だと感じてしまうのは、近代的な人間観(つまり「自分の気持ちを自由に書いてください」と平気で言ってしまえるような)に囚われた思い込みなのだ。音数に定型があることは、束縛でもなんでもない。ミュージシャンは決まったメロディやコード進行に従って歌ったり演奏したりすることを「束縛」だとは思わないだろう。俳優が脚本通りに台詞をしゃべることを「制限」とはふつう言わないだろう。サッカー選手はプレー中に手を使えないことを「窮屈」だと感じてなどいないだろう。それと同じで、私は五七五七七に窮屈さを感じたことなんて一度もない。

 メロディや脚本は芸術作品に表れる「美」を体現するための手段だし、サッカーで手を使わないのはゲームを成立させるためにプレイヤーに平等に課せられるルールだ。五七調もそれと同じなのだが、なぜか言葉に関してだけは「自由であるのが善で正しい、ありのままの姿だ」と思われてしまう。言葉だってギターやサッカーボールと何一つ変わらないのに。思想や想いなんて込めなくても一向に構わない、遊び道具の一つなのに。

 私は「ありえない!」という言葉が好きだ。信じられない話を聞いたときなどに発せられる、若者言葉のほうの「ありえない!」が。なぜならその言葉の前には、「何らかの特殊なシチュエーションがあるのではないか」「われわれが生きている現実とは違う世界観なのではないか」という、文面上の意味を超えた解釈を要する状況が生まれているということだからだ。私も「短歌ゲーム」で手持ちのカードをむりやりつなぎ合わせてみせたときに、心のなかでひそかに「ありえねえよ、こんな状況!」と叫んでいる。最高に嬉しい悲鳴だ。偶然に生まれた、矛盾していたりありえなかったりする言葉。自分の思考の範囲内では、とても生まれるはずがなかった言葉。それが大好きだ。

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 だから私は短歌をやっている。短歌を作っていると、自分でも予想していなかったかたちに言葉が自立してゆく瞬間がある。そのときたまらなくぞくぞくするのだ。難解なジグソーパズルがぱちりとハマった感覚になる。さらにいえば、他人の短歌を読んでいるときも、うまく整合性のある解釈が出来たときに同様の快感がある。その歌の作者と一緒に、ジグソーパズルを完成させられた気になるのだ。

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