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瀧井 朝世
2016/01/24

最後の納得できる1作に向かって習作をずっと積み重ねている気がするんですよね。――白石一文(2)

話題の作家に瀧井朝世さんが90分間みっちりインタビュー 「作家と90分」

genre : エンタメ, 読書

(1)より続く

白石一文(しらいしかずふみ)

白石一文

出版社勤務を経て、2000年『一瞬の光』でデビュー。2009年『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』で山本周五郎賞を、翌2010年には『ほかならぬ人へ』で直木賞を受賞。著作に『不自由な心』『僕のなかの壊れていない部分』『私という運命について』『どれくらいの愛情』『永遠のとなり』『心に龍をちりばめて』『この世の全部を敵に回して』『砂の上のあなた』『翼』『幻影の星』『快挙』『神秘』など多数。

――2006年に『もしも、私があなただったら』(のち光文社文庫)が出て、それから作品集『どれくらいの愛情』(のち文春文庫)が出ています。光文社、角川以外からの刊行は初で、かつ古巣の文藝春秋から出ているんですよね。

もしも、私があなただったら (光文社文庫)

白石 一文(著)

光文社
2008年7月10日 発売

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どれくらいの愛情 (文春文庫)

白石 一文(著)

文藝春秋
2009年8月4日 発売

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白石 そうなんです。最初に角川で3作書こうと思ったんですね。で、角川の遠藤徹哉さんとのコンビで3作書かせてもらった。そのあとは、『一瞬の光』を出した時に真っ先に声をかけてくれたのが光文社の大久保さんだったので、大久保さんに向けて3作書こうと思った。それで結局4作ずつ書いたんですけれど、なんかね、そのうちだんだん食べられなくなってきたんですよ。

『一瞬の光』の文庫はすごく売れたんですけれど、かなりの額の仕送りもしていましたし、父の看病でも出費がかさみました。と同時に、小説を書くのが嫌になってきてスランプに陥ってしまった。ちょうどその頃に『オール讀物』の編集長だった羽鳥好之さんから注文を貰って中篇をいくつか書いたんです。

 書くのが嫌になったというのは、一番の理由は親友だった黒沼克史さんを肺がんで失ったからでしたね。黒沼さんとは、文春に入って「週刊文春」の編集者になった駆け出しの時期に週刊の編集部で出会って、その後、彼が独立してノンフィクション作家になってからも付き合いが続いていました。とにかく頭のいい人で、それだけじゃなくて人間的にも私なんて足元にも及ばないほどやさしくて優れた方でした。代表作でいうと流行語大賞の候補にも選ばれた『援助交際』(文春文庫)とか、『少年にわが子を殺された親たち』(同)とか『少年法を問い直す』(講談社現代新書)とか。どの作品も素晴らしいものです。4つか5つ年長で本当に仲がよかったんです。

 で、私も退社してしばらく縁がなかったんですが、彼から久しぶりに電話がかかってきたんです。「白石、元気?」「うん」「いや、実は、がんになった」って。それが肺の外側に腫瘍ができるパンコースト腫瘍という、治療の難しいがんで……。手術ができなくて放射線しかないというんです。あわてて会って相談に乗りました。で、私のパニック障害を治してくれた漢方の先生がいるんですけれど、その先生のところに連れていったりもしました。そうそう、私の発作に効いた漢方は参考になるかもしれないのでぜひ書いておいてほしいんですが、奔豚湯(ほんとんとう)というものです。パニック発作というのは狂った豚が頭の中で奔走している状態だということで、それを鎮める薬なんです。この奔豚湯は私にはびっくりするくらい効きました。

 その漢方の先生のところに連れていったり、二人でいろいろ最先端医療を研究したりして、黒沼さんが発症してから亡くなるまでずっと付き添ったんです。奥さんや息子さんと一緒に最期も看取らせてもらった。2005年の4月のことです。

『私という運命について』が出たのは黒沼さんが亡くなった直後だったので本が出ても嬉しいという気持ちはほとんどなくて、取材も全部お断りして、福岡からも一歩も出ないで、書く意欲もわかなくて。今でも思い出すと泣きそうになってしまうんですが、そんなこんなで、もう、小説を書くのはいいやと思って……。

私という運命について (角川文庫)

白石 一文(著)

角川グループパブリッシング
2008年9月25日 発売

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――あれだけ作家になりたいと思っていたのに、気力がなくなってしまった。

白石 もともと、ずっと小説家になりたかったんですけれど、作家になったら死ぬまで小説を書きたいという感じでもなかったんですね。気分としては。作家と名のつくものになって自分の文庫が1冊出ればいいと思っていました。だから『一瞬の光』があれだけ分厚いものなのに文庫になってくれたことで充分に満足していたんです。それで、父を送った時に黒沼さんが「次は自分だ」と言って、本当にそのとおり亡くなってしまって、一回完全にモチベーションが切れたんですね。

 そういう時期に文春の羽鳥さんが「書かないか」と言ってきてくれて、そのことは本当に感謝しているんですけれど、もうこれが最後だと思って作品集に入っている幾つか中編を書き、そして、最後の最後のつもりで表題作である「どれくらいの愛情」という300枚くらいの小説を書き下ろしたんです。

 そうしたら、この作品集が直木賞の候補になったんです。それでコロッと「まあ、受賞するのは間違いなく俺だよね」って思うわけです(笑)。直木賞をもらったら、もうちょっとやれるかなという欲も出てきたので候補になったことはありがたかったですね。

 だって、それまで全部断っていたんです。吉川英治文学新人賞も山本周五郎賞も候補の連絡を受けた時点で辞退していました。そうすると「白石さんは直木賞だけはお金になるから受けたんだ」と当然みんなから思われますよね、弟の文郎なんて呆れ返っていましたし。でも、もう生活も仕送りもできないから、お金のためにも候補になるしかなかったんですよ。

 そうしたらすってんころりん、選考会でいの一番に落ちたわけですよ。その時に鼻っ柱が折れたというんでしょうか。「文庫が1冊出ればもう作家はいいや」なんて言っていたけれど、それってすごく偉そうでしょう? 実は、そういうエクスキューズを設けながら「まあ適当にやっていてもこれぐらいは書けるから」みたいな驕りがあったんです。文学賞についても、受賞するかしないかでみんなが憂き身をやつしているのを遠目に眺めながら、「自分は特別だから」「貰おうと思えばいつでも貰えるから」と思っていたんです。

 そうしたら現実は、私が大ファンだった渡辺淳一さんに酷評されたんですよ。あれで目が覚めました。これはちゃんとやらなきゃだめだと思いましたね。それで、逆に気持ちが少し立ち直りました。

 あそこで受賞しなくてよかったとつくづく思います(笑)。受賞していたらとんでもない人になっていた気がします。落選して、少し現実感が身に着いた気がしますね。

 でも、それでも、そこから今に至るまでもずっと小説を書いていくだろうとはまったく思いませんでした。ここ最近ですね、自分はずっと書いていくんじゃないかなと思い始めているのは。