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実績ゼロで入部した中央大学・中山顕が箱根駅伝の1区で走るまで

雑草たちの箱根駅伝 #1

2019/01/22
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 入学が決まった後には、当時の浦田春生監督に自ら「練習に参加したい」と電話をした。とはいえ、5000m15分台の記録ではなかなか入部の許可は下りない。なんとか寮外から日常の練習に参加する「準部員」という形式で話がまとまったという。

 準部員という立場では、陸上部の寮には入れず、中大の名前の入ったジャージや「C」のロゴマークの入ったウエアを着ることもできない。

 中山の大学陸上生活は、文字通り底辺からのスタートだった。

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底辺から始まった、箱根への道

「最初は『ここでやっていけるかなぁ』という気持ちの方が正直、大きかったです。周りはみんなインターハイや高校駅伝で実績がある有名選手ばかりで、自分は基礎練習にもついていくことができない。はじめは寮外生としか話もできなくて、高校時代からエース級だった堀尾(謙介/4年)なんかには、気安く声をかけることもできなかったです(笑)」

 そんな環境の変化に加え、それまでは考えられなかったほど急激に練習量も増加した。はやる気持ちに身体が追いつかず、1年目の夏には故障も起こした。

「この頃が一番、きつかったですね。夏の3カ月くらいほとんど走れなくて。『ただでさえ遅いのに、何をやっているんだろう』と考えてしまいました。この頃には『やっぱり自分に箱根は無理なんだ。諦めようか』という想いが頭をよぎるようになっていきました」

 首脳陣からは「9月までに5000mで14分台を出せなければ、部には残せない」と言われていた。夏に故障を起こすということは、この条件の中では致命的ともいえるものだった。

 そんな中で、中山を救ったのが当時チームで指導に携わっていた森勇基コーチの存在だった。

「ちょうどそのタイミングで、森コーチがそれまでなかった『育成チーム』を作ってくださったんです。高校時代に記録を持っていない選手たちで形成するチームで、そういう選手たち用に特別にメニューも用意してくれて、少しずつ力をつけられました」

夢にまで見た「C」のジャージを着るとき

 部に残る条件についても、森コーチの尽力が非常に大きかったと中山は振り返る。

「『あいつら頑張っているから、12月まで待ってもらえませんか』という話を監督たちにしてくれていたみたいで。それで育成チームが全員、11月に14分台のタイムを出して、なんとかチームに残れたんです。僕は14分58秒だったと思いますけど、その2秒が切れた時は本当に嬉しかったですね。思わずガッツポーズでした。もし普通のチームだったら、僕は部に残れなかったんじゃないかと思います」

 夢にまで見た「C」のジャージは、翌年の箱根駅伝の補助員としてはじめて身に着けられたという。ようやく「チームの一員になれた気がした」と振り返る。

 2年生になるとケガもなくなり、中山はどんどん力をつけていった。

「少しずつ練習もこなせるようになって、ついていける距離が少しずつ長くなっていって……という感じで徐々に伸びて行きました。いままでできなかった練習ができるようになると『力がついたのかな』と思えましたし、試合でベスト記録を更新できれば『強くなっているな』と自信になって、次も『もっと上を目指していこう』とステップアップできました」