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2019/02/11

「国民と苦楽を共にするという精神的立場に立っています」

 昭和天皇は長く在位していたこともあり、明仁皇太子は長く皇太子としての立場にあり続けた。それゆえ、明仁皇太子はその時期に自身の存在やあり方、公務について模索をし、象徴とは何か、天皇とは何かを考えていた。皇太子はその模索の中で過去の天皇の事績についても学び、「天皇が国民の象徴であるというあり方が、理想的」「天皇は、政治を動かす立場にはなく、伝統的に国民と苦楽を共にするという精神的立場に立っています」と述べていた(「読売新聞」1986年5月26日)。歴代の天皇の姿を具体的に参照しつつ、それこそが象徴という立場に一致していると見ていたのである。こうした考え方が、天皇に即位した時の言葉となって結実したのだろう。皇太子時代より模索したことが、天皇となった時に国民との関係性として言及されたのである。

即位礼正殿の儀 宮内庁提供

 そして、こうした「苦楽を共にする」代表的な行動が、被災者への見舞いだろう。それが最初にマスメディアや国民に注目されたのは、1991年7月の長崎県雲仙普賢岳噴火時であった。災害が継続している最中に天皇が被災者を直接見舞うのは、戦後初めてである。天皇皇后はこの時、膝を突き、被災者一人一人と目線を合わせ、声をかけた。

「分断社会」となった平成

 こうした被災地への見舞いは、「開かれた皇室」路線の一環と認識されていく。その姿は大々的に報道された。その後も平成に入ってからの日本は多くの自然災害に直面しており、被災者への見舞いは天皇制がそれまでとは異なり、新しくなったことを示す取り組みとなった。その後も、1993年7月には北海道南西沖地震の被災地である奥尻島を被災者への見舞いのために訪問、1995年1月31日には、阪神・淡路大震災の被災地である兵庫県を訪問して被災者を見舞い、ボランティアなどを激励した。

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 この時は地下鉄サリン事件など多くの世情不安な出来事が頻発する時期であって、天皇皇后の見舞いは被災者への「癒やし」として求められていった。高度成長が終わり、平成は「分断社会」となった。そうした状況の中で、天皇皇后の被災地訪問は、被災地を思い起こさせ、被災者を救うという意味で、国民の「再統合」という役回りにもなったように思われる。