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「どうしてベイスターズが好きなの?」彼女は私に聞いた〜人妻キャンプだより 2019出会い

文春野球コラム オープン戦2019

2019/03/24
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 沖縄の雨にイントロはない。ぽつり、ぽつりという前触れもなく、一気にザザーっと本降りになった。宜野湾球場のスタンドで、私はグラウンドのシートを叩きつける雨をただぼうっと見ていた。

 今日一軍選手たちは「休養日」なのだという。私はそんなことも知らなかった。自分の仕事と夫の仕事の都合が奇跡的に合ったのが、この2日間だけ。「キャンプに行きたいの」と私が言う前に「沖縄か」と夫は言った。テレビに映った倉本選手を観たあの日から、何も知らなかった野球にのめり込んで、2年。それは、母でもなく、妻でもなく、ただの一人の「ファン」として、誰かを応援する喜びを知った2年だった。

 シーズンが始まればジリジリと熱くなり、秋には祭りの後のような静けさがやってくる。夫が抱いていた戸惑いの鮮度もやがては落ちて、日常に溶け込んでいったのだろうか。私は……そうであって欲しいという思いと、ちゃんと理解して欲しいという、反発する思いとでいつも揺れていた気がする。「実家に連れてくよ、おふくろもこうちゃんに会いたがってたから」。持ち帰ってきた仕事の、パソコンのモニターから目を離すことなく夫は言った。私は反射的に「ごめんなさい」と謝っていた。

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 シートにできた水溜りは、既に小さな池くらいの大きさになっている。キャンプ中ならいつでも野球が観れると信じて疑わなかった自分の無知を呪った。選手だって人間だよ、休みが必要でしょ。それなのに私は。休養日ならせめて……と思ってやってきたファームの試合は雨で早々に中止が決定した。色んな思いを振り払って沖縄まできたのに、私は一体何してるんだろう。ごめんあなた、ごめんこうちゃん。蓋をしていた罪の意識が、頭の中に噴出して止まらなくなる。主のいないスタンドで一人、雨の音にかき消されるのをいいことに、私は「なんでーーーーー」と叫んでいた。

雨が降りしきる宜野湾球場

「いいですよね、私も好き、倉本」

「ほんと、せっかく梶谷の復帰戦だったのに」不意に背中から声がする。え!? 誰かいたの? 恥ずかしさで身を固くしながら振り返ると、3列後ろ、キャップをかぶった女の人が私の方を向いて笑っていた。そして「もーーーーカジーーーー」と叫んで、また笑った。それが彼女との最初の出会いだった。

 沖縄の雨は一通りサビを歌い上げると、気が済んだのか何事もなかったように止み、青空が顔を覗かせていた。「良かった。沖縄の道路は滑りやすいから、怖くて」ハンドルを握りながら独り言のように彼女が言う。「道路にね、“琉球石灰岩”っていうのが使われてて、雨だとそれが滑りやすいんだって」。「なんでも知ってるんですね」と私が言うと「……って、前に乗ったタクシーの運ちゃんが言ってた」とニヤリ。ほんの30分前まで知らなかった人の車に、私は今乗っている。スタンドで「カジーーー」と叫んでから「一人ですか?」と彼女は私に聞いた。「はい……」と答える前に「あ、倉本」。彼女の視線は私のカバンにつけたキーホルダーに向かっていた。反射的にキーホルダーを握りしめる。「いいですよね、私も好き、倉本」。その「私も好き」は、思ったより深く、私の心に入り込んできた。そして「私も一人なの」少し恥ずかしそうに彼女は言った。

 幼稚園のママ友も、パートの職場仲間も、最低限。人見知りがコンプレックスの私が、知らない人の車に乗っている。「番長が現役の頃は、毎年来てたの、キャンプ」。車は戸惑う私を乗せて、いつの間にか市街地を抜けていた。その代わりに、テレビでよく見るような沖縄っぽい石の壁が姿を現す。窓を開けると塩気を含んだ風が頬に当たった。「番長って、三浦コーチ……?」私が野球を見始めた時、既に三浦投手は現役を退いていた。おずおずと尋ねると「そう、私がずっとベイスターズファンでいられたのは、番長のおかげだし」そう言ってから、しばらく黙って「ベイスターズファンをやめられなかったのも、番長のせいかな」と少し寂しそうに笑った。

番長こと三浦大輔投手コーチ

 彼女は私より年上で、東京で仕事をしていると言っていた。結婚していて、子どもはいない。私が子どもを置いて一人でキャンプに来たと言うと「やるじゃん」とまた笑った。よく笑う人だ。沖縄の道路のこと以外にも、彼女は私の知らないことをたくさん知っていた。ベイスターズがホエールズという名前だった頃のこと、1998年に日本一になったこと、マシンガン打線のことハマの大魔神のこと、長く勝てなかった日のこと。「ほら、私の希望」。パーカーの裾をペロッとめくり、私にTシャツを見せた。「永遠番長」と書かれたTシャツを。

 すごいなとため息をついた。私はまだ2年しか野球もベイスターズも知らないから。私の知らないことをたくさん知ってる彼女がうらやましく、何かよくわからない申し訳なさに襲われていた。ファンでいることのアイデンティティが揺らぐような時代のこと、私は全然知らなくて、情けなかった。そしてつい、言ってしまった。言い訳のように。「私なんて、にわかだから」と。

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