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あさのあつこ 「わたしを執筆へと導いてくれた藤沢周平作品」

オール讀物セレクション 作家の本棚

  藤沢周平の作品群の中からベスト〇を選び出すのは至難だ。〇の中にどんな数字が入ろうが至難だ。少なくともわたしにとっては、この上なく悩ましい作業になる。

 珠玉(しゅぎょく)という言葉がある。藤沢周平の作品一つ一つは、まさに内に珠や玉を抱えている。それは、決して豪華でも華やかでもない。人の目を射るほどの煌きを放つのではなく、光を吸い込んでひっそりと艶めく。それは物語の艶であり、人という生き物の艶だ。

 そうか人というものはこんなにも底光りしながら生きているのか。物語はその微かな光をここまで鮮明に捉えることができるものなのか。

 藤沢作品を読むたびに、思う。思うたびに、人の世に安易に絶望できない、わたしなりにこの危うい世界の内に希望を見つけ出して書きたいと強く心を揺さぶられる。

あさのあつこ 岡山県生まれ。『バッテリー』で野間児童文芸賞などを受賞。最新刊は「弥勒」シリーズの『花を呑む』

『橋ものがたり』と出会ったのは、もう三十年近く昔になる。三十代のとば口にいたわたしは、三人の子を育てる若い(?)母親だった。毎日が忙(せわ)しく、騒々しく、瞬く間に過ぎていった。物書きになりたい、胸の内にある何かをきちんと文章で書き表わしたい。誰かに自分の作品を読んでもらいたい。欲望は埋み火のように淡く火照っているのに、現実は一行、一文字も書けないまま、日々だけが飛んでいく。もういいか、所詮、見果てぬ夢だったのだ。そう諦めかけようとしたとき、出会ったのだ。『橋ものがたり』に。蛇の目傘に顔を隠した女が急ぎ足で橋を渡ろうとする表紙絵の文庫本をわたしは近所の書店で手に取った。藤沢周平という作家名はさすがに知っていたが、作品を読んだことは一度もなかった。

 短編集だ。これなら細切れの時間でも読める。

 書けなくても、読むぐらいはしたい。そんな軽い気持ちのまま購入したこの本で、わたしはわたしが隠し、ごまかしていた真実を悟ってしまった。

『橋ものがたり』は、十の橋と人との物語だ。どれもが細やかで愛しい。

 物語ってこんな風に人をすくい取れるのか。読み終えた瞬間、書きたいと思った。わたしも書きたいと。そして、悟った。わたしは書けないのではなく、書かなかっただけだと。『橋ものがたり』に揺さぶられ、わたしはわたしの弱さやいいかげんさをやっと直視できたのだ。

 それから、藤沢周平の作品を読み漁った。

 かっこいい。男も女もかっこいい。姿形が良いからではなく、その佇まいが息を呑むほどに美しいのだ。「山桜」の野江と弥一郎の控え目で確かな矜持、「三月の鮠(はや)」の信次郎の一途さ、「雪間草」の松仙の凛々しさはどうだろう。

“吉兵衛が藩のため、主君のため黙って腹を切る覚悟が出来る男になったのを知ったこと、その吉兵衛を、首尾よく助けることが出来たことが快く胸に落ちついて来るからかも知れなかった。”

「雪間草」の最後のこの文章を読んだとき、松仙に恋心に近い想いを抱いたものだ。何て、かっこいい人なんだろう、と。

「麦屋町昼下がり」の敬助、「梅薫る」の志津の老いた父親、そして『ささやく河』の伊之助、みんなみんなかっこいい。自分の人生を背負い、その重荷に背骨をきしませながら、佇まいの美しさを崩さない。藤沢周平はしかし、耳触りのよい人間賛歌を歌っているわけではない。「暁のひかり」の主人公市蔵が胸内で呟く。

“これだから、世の中は信用がならねえ。”

 現実と闘い、敗れた男の台詞だ。その傷の深さゆえに、余韻を残す。人に希望を差し出すこと、それを奪うこととはどういうものなのか、頭ではなく心が考えようとする。そんな作品だ。それは「にがい再会」にも通底する。しかし、こちらは読み終えて、どこか爽快感を覚えるのは男に人生の苦みを教えた女、おこまの心意気に感じるからだろうか。

 藤沢周平は絶望も安易な希望も語らない。ただ人を描くだけだ。人が織りなし、生みだす絶望や希望を丹念に綴り、わたしたちに示してくれる。それは、藤沢作品を読まなければ気づきもしなかっただろう人のあり様だ。

「逆軍の旗」は明智光秀を主に描かれた物語だ。覇者ではなく、歴史上あまりに有名な敗残の将が主人公なのだ。その心の陰影が淡々と綴られる一編には、重い衝撃がある。こういう人の切り取り方、人への接近は藤沢周平だからこその妙味だ。明智光秀の生身を確かに感じ取れる。

 ベスト10には名を上げなかったが、わたしは「榎屋敷宵の春月」(『麦屋町昼下がり』に収録 文春文庫)も好きだった。田鶴という女性が夫の出世のために奔走する。ライバルの失脚を確信し、さぞや見物でしょうよと晴れ晴れとした心持になる。その俗っぽさがいい。優しく強い女の持つ人間臭さがたまらない。

 わたしはまだ『漆の実のみのる国』(上下巻 文春文庫)を読んでいない。藤沢周平の遺作を未読であることが、この先の人生の静かな楽しみとも支えともなるからである。

 あさのあつこさんが 選んだ藤沢作品10冊

オール讀物 2017年 02 月号

文藝春秋
2017年1月21日 発売

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