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上野に行って、女神の柔肌を愛でる

ヴェネツィア派画家のきらめく色彩

2017/02/05
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 いま上野に足を運べば、絶世の美女と対面することができる。ひとめ見たいという向きは、東京都美術館を目指すべし。ここで「ティツィアーノとヴェネツィア派展」が開催されている。

ミケランジェロと並び立つ、ティツィアーノ

 ティツィアーノは、16世紀のヴェネツィアで活躍した画家。いや、活躍したという形容では生温い。西洋絵画における巨匠中の巨匠であり、ほんの少し前の時代を生きたルネサンスの三巨星、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロと、美術史上の評価では並び立つ。

 同時代の批評家には、
「ミケランジェロの素描、ティツィアーノの色彩」
 と称された。形態を捉えることに関してはミケランジェロが当代随一。いっぽうで、色彩表現にかけてはティツィアーノが群を抜くというわけだ。
 そう、ティツィアーノおよび、彼を代表格とするヴェネツィア派の特長は、なんといっても絢爛な色彩。寄せては返す細かい波に合わせてキラキラとする海面のごとく、画面全体が輝きを帯びている。

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 ヴェネツィアは周知の通り、海に囲まれ運河が至るところに通る街。水の煌めきといつだって隣り合わせである。地上に目を移しても、街の象徴たるサン・マルコ聖堂は黄金色を配したモザイクで覆われ、人々はムラーノ島名産のガラス器やビロードの衣装で生活を彩ってきた。昔も今も、地球上で最も色彩豊かな地のひとつだろう。そんな地の画家たちが色彩に長けるのは、至極当然のことだ。

 ヴェネツィア派の親玉たるティツィアーノが秀でているのは、人物表現においても色彩の煌めきを存分に発揮できるところ。今展には、若き日の人物画の代表作、《フローラ》が海を越えて運ばれてきている。さまざまな画家の作品が多数展示されているとはいえ、お目当ては《フローラ》に絞って間違いない。

©山内宏泰

女神フローラの肌合いに釘付け

 会場の作品群は、概ね時代順に並べられている。ベッリーニらヴェネツィア派の先駆者たちによる絵画で、いかにも伝統的な西洋絵画といった趣の重厚さがある。歩を進めていくと、広い場所に出た。先にある壁面に、ぽつりと一点の絵画が掛かる。これまで感じていた重厚さはそこになく、軽やかさが画面全体を支配する。《フローラ》である。

 花の女神たるフローラを題材に、ティツィアーノはこの絵を描いた。たしかに、均整のとれた美しい顔に、慈愛に満ちた微笑。個別性を示す小道具などは描かれておらず、女神と呼ぶにふさわしい理想の女性像がここに現れている。まさに貞淑を絵に描いたよう。

 ただし、それだけじゃないのが、ティツィアーノの凄みの所以。女神的な側面を十全に満たしたうえで、実在感たっぷりの艶かしいひとりの女性としても、彼女は表現されている。

 絵に近づいていく。一歩進むたび、どうしようもなく彼女の肌に、目を釘付けにされてしまう。デコルテのあたりの、ものみな吸いつけるような桃色がかった柔肌。身にまとう薄い衣装は、当時の下着である。金色の髪の向こうは、光が落とされてひたすら暗い。白と黒の色に挟まれて、肌の桃色がいっそう輝く。

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 《フローラ》 1515 年頃、油彩、カンヴァス、79×63cm、フィレンツェ、ウフィツィ美術館
© Gabinetto Fotografico del Polo Museale Regionali della Toscana

手指の繊細な表現が感情を表す

 鮮やかな朱色の唇も目を引くとはいえ、最もじっと眺め入るのはやはり、露わになった胸元。一枚の絵を描くにあたって、焦点を顔ではなく肌そのものにするとは。肌の質感、すなわちそれを生み出す色彩の感覚に、よほどの自信がなければ為し得ないことだ。ヴェネツィアの色彩は、色そのものが生命感を表し、人の感情を揺り動かす。色の可能性をとことんまで追求し押し広げているのだった。

 胸元に次いで愛でたくなるのは、フローラの手指である。こちらも結局、肌なのだけれど。左手の甲の、つるんとして陶器を思わせる質感、人差し指と中指だけを伸ばして衣装を押さえるしぐさに、ドキドキさせられる。

 女神相手にそんな思いを抱くなんて、ちょっと不謹慎か? いえ、描いたティツィアーノ本人も、彼の絵を所望した注文主も(最上層の身分の面々が大半であった)、そのあたりは織り込み済み。大っぴらではないものの、性的なニュアンスが含まれることは大いに意図しながらやりとりをしていた。そのあたりは、欧州指折りの栄華と繁栄を誇った当時のヴェネツィアの大らかな土地柄も、多分に寄与していそうだ。

 貞淑、奔放、快楽が同居する理想の女性像を堪能し、まだ精力が残っていれば、もちろん他の絵もたっぷりあるのでゆっくり観ていこう。ティツィアーノは《ダナエ》や《教皇パウルス3世の肖像》、同時代で傑出した才能を見せつけたティントレット《レダと白鳥》、ヴェロネーゼ《聖家族と聖バルバラ、幼い洗礼者聖ヨハネ》などの名品もあって見逃せないのだ。

上野に行って、女神の柔肌を愛でる

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