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清武 英利
2017/02/22

銀座警察が消えた街 #2

50年後の「ずばり東京」ーー見栄と風儀と痩せ我慢の街

銀座警察の復活

「銀座警察のころは、街にしまりがありましたよ」

「そうかねえ」

 組長が、20年前の話をし始めたので、向かい合ってコーヒーを飲んでいた山口は遠くを見るように目を細めた。定年を迎える前は、警視庁築地警察署の組織犯罪対策課係長だったのである。そこで「マル暴担当」と呼ばれる暴力団対策係を統括していたのだった。

「そうですよ……。俺たち、組の腕章つけて交通整理もしてました。あのころ、中央通りと呼ぶ者なんかいませんでしたよ。今は、タクシーに乗って『銀座通りへ』と言うと、『えっ?』と聞き返される」

「銀座通りは二重駐車で、警察の緊急車両も通れない時があったな」

 山口は2007年春に警部に昇進して警視庁を退職している。銀座の隣の築地で、大きな飲食店チェーンの総務担当に再就職した後、組長と再会した。

 貸し借りは何一つないが、お互いに九州出身だという気安さがある。組長が「おたくの個室を使わせてくれませんか」と予約してくれば、「悪いけど都条例でそれはできないよ」と断わっている。ただ、この世には、ヤクザと堅気をつなぐ人間が必要なこともわかっている。

「車の流れも良かったですよ。ほかのヤクザは、『銀座警察の復活ですか』とか言ってましたけど」

「やめな、と俺は言ったよ」

 銀座警察は警視庁の組織図にはない。銀座を管轄するのは、山口のいた築地警察署で、銀座警察は私設の、銀座のヤクザによる自警団のことである。

「迷惑はかけてなかったですよ。あれは、自分が8年務めて(刑務所から)帰ってきて、もうちょっと頑張らなきゃ、まずは街からきれいにしようと思っていたころですね。自転車やバイクなんかが停まってると、ここに置かないようにしてよ、と注意したりして。タクシーの近代化センターですか、あそこに行って、タクシー待ちの(列が)邪魔になるから、うまくやってよ、とずらしてもらったところもありますよ。今はもう、ぐちゃぐちゃでしょう」

©iStock

 とはいえ、ヤクザが交通整理のために自警団を買って出るわけがない。縄張りいのちの彼らにとって喫緊の、かつ生臭い事情があった。

 そのころ、各地の盛り場はバブル期に流れ込んだ「不良外国人」と呼ばれる無数の集団であふれていた。代表格が、中国マフィアや台湾マフィアである。目的のためには手段を選ばない彼らは、新宿から銀座へと進出し、いざこざを起こした。

 日本は再び不況の暗闇に落ち込もうとしている。政府は住宅金融専門会社(住専)7社の不良債権処理のために、巨額の財政資金投入を決め、金融不安の払拭に夢中になっていた。警察は、阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教への捜査と警備で手が足りない。

 そこで、小林会は組員に腕章を巻かせ、50人から100人の隊列を組んで自衛と深夜の示威行動に出た。指定暴力団を対象にした暴対法(暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律)が1992年に施行され、「みかじめ料」や「寄付金、賛助金の要求」「下請参入の要求」なども禁止されていた。米櫃を奪った当局に対する反発もヤクザ側にはあったであろう。

「銀座警察」と呼ばれた理由

 その自警団が「銀座警察」と呼ばれたのには理由がある。実は終戦直後に初期の小林会が名乗ったのが始まりで、組長が加わった1995年以降のものは復活版の銀座警察なのである。

「もともと、うちの初代が敗戦でみんな悲しんでいるとき、復興しなければと、外国人を見たらすぐに喧嘩を吹っ掛けていたらしい」

 組長は生き生きと、光る眼で続ける。

「銀座警察とわかるようなステッカーを店に貼っていたら、無法者は寄り付かなかったそうですよ。一種の『暴力団お断り』というシールみたいなものですね。それを貼る代わりに、こっちが言ったか、向こうが言ったか、みかじめ料を取っていた」

 それだけならば、混乱期に乗じたヤクザの一党という話に留まるのだろう。敗戦と同時に、警察も、国の根幹をなす税務組織すらも無力なものに堕ちていた。訓示をした警察署長が「何を言うか」と署員に殴られたり、酒の密造者を摘発した税務署課長が殺されたり、在日朝鮮人や中国人に課税を強行した税務署長が殺し屋に狙われたりする、混乱の時代だったのである。

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