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森谷 公俊
2017/03/21

教科書に載っていない世界史 古代ギリシアはペルシア帝国に操られていた

教科書に載っていない世界史 ペルシア戦争 紀元前490―479年

アテネをはじめとする都市国家は内紛に明け暮れながら、アジアの強大な帝国を仰ぎ見ていた。

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 紀元前5世紀の古代ギリシア、繁栄の絶頂にあったアテネでは、風変わりなものが流行していた。ギリシア人の衣服は一枚の布を巻いただけで袖がないのに、長袖の付いた丈の長い上衣を着る人々がいた。奴隷に日傘を持たせ、頭上にかざして外出したり、室内では扇で自分をあおがせる女性たちもいた。こうした様子は現存する壺絵に見ることができる。長袖の上衣、日傘に扇、どれもペルシア風を真似たもので、上流の人々によって使われた。

 ペルシア風は個人の趣味に留まらない。民主政を動かす役人団の一つである評議員の詰所は円形で、上部は傘を開いたような円錐形をなしていた。アクロポリスの麓(ふもと)に建てられたオデイオンと呼ばれる建物は、正方形の敷地に9列×9列の柱が並んで四角錘の屋根を支えるという、当時のギリシアでは考えられない建築様式だった。これはペルシア王の天幕を模倣したと考えられている。このように公共建築にさえペルシアの様式が採用されたのだ。これは一体何を意味するのか。

 ペルシア軍の侵攻をギリシア人が撃退したペルシア戦争(前490〜479年)からすでに数十年。ギリシア人は敗れたペルシア人を軽蔑し、彼らは王の奴隷も同然だと見なしていた。その一方でギリシア人は、ペルシア人が戦場に残した豪華な天幕や金銀の家具調度品に目を見張り、異国情緒あふれる文物に強いあこがれを抱いた。アテネが派遣した外交使節もペルシア王から豪華な贈物を受け取り、数々の舶来品をもたらした。その中には孔雀もあった。ペルセポリスの浮彫りにもあるように、日傘はペルシア王の権力を象徴する持物だった。アテネの上流市民がこれを真似たのは、自身の社会的地位を誇示するためである。奴隷は本来なら生産労働に使うべきなのに、日傘を持つ奴隷は何の価値も生み出さない。よって奴隷に日傘を持たせることは、生産労働とはかかわりのない奴隷を持つだけの財産を主人が有していることの証明となるからだ。

 通常は、戦争に敗れた側が勝った側の文化に憧れる。ところがペルシア戦争に勝利したギリシア人が、敗れた側のペルシア文化を模倣し、ペルシア趣味に耽(ふけ)るという、逆の現象が生まれたのである。

豊かなアジア、貧しいギリシア

 なぜギリシア人はこれほどまでにペルシア風を愛好したのか。世界史で習った印象とは逆に、ギリシアよりペルシアの方がはるかに豊かだったからだ。ギリシアの国土は山がちで痩せており、ブドウやオリーブは育っても、穀物の自給は難しく、一部を除いて貴金属も乏しい。対してペルシア人は小アジアから中央アジアにまたがる大帝国を築き、農作物から貴石に至る豊かな産物を有していた。

 へロドトス『歴史』第一巻によると、ペルシア以前に小アジアを支配したリュディア王国のクロイソス王は巨万の富を持ち、その名声はギリシア中に鳴り響いていた。同七巻では、スパルタから亡命した王がクセルクセス王に向かって、「ギリシアの国にとっては昔から貧困は生まれながらの伴侶のごときもの」(松平千秋訳)と語っている。

 前479年のプラタイアの会戦でペルシア軍が撤退した後、スパルタの指揮官は捕虜となった料理人に、ペルシアの将軍に用意するのと同じ料理を作らせ、山海珍味に驚きあきれた。戯(たわむ)れに自分の召使いにスパルタ風の料理を作らせると、あまりの落差に笑い出したという。アリストファネスの喜劇『蜂』では、大枚をはたいて織られるペルシア外套(がいとう)の逸品が言及される。東方世界の豊かさとギリシア世界の貧しさ、これが古代ギリシア史を貫く隠れた糸である。

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