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佐藤 祥子
2017/03/18

稀勢の里が語る「我慢」と「辛抱」でつかんだ快進撃

先代鳴戸親方「おしん横綱」の教え

大相撲春場所の初日、豪風を下し白星発進した稀勢の里 ©共同通信社

 2017年、大相撲春場所で初日から連戦連勝を続ける新横綱・稀勢の里。大相撲初場所からの快進撃を続ける強さの源はどこにあるのか。自らのことを「実はおしゃべり野郎」とも語る、稀勢の里へのインタビューから、新横綱の素顔と勝利の舞台裏に迫った。

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 2017年、大相撲初場所。千秋楽、満員札止めの両国国技館で、稀勢の里は地鳴りのような大歓声のなかにいた。

「ずいぶん長くなりましたけど、いろんな人の支えがあってここまで来られたと思っています」

 溢れ出る涙を隠さず、真っ赤なタオルで目頭を拭いながら、そう答えた。頬を伝わるその涙には、喜び以上にこれまで背負い続けてきた重圧から解放され、「産みの苦しみ」を耐え切った安堵もあったに違いない。

 初場所の稀勢の里は、初日から8連勝。9日目に琴奨菊に敗れたものの、単独トップで迎えた14日目、寄り切って逸ノ城を制す。1敗差で追っていた横綱白鵬は、この日の結びの一番で、初顔の平幕・貴ノ岩に不覚を取る。その瞬間、稀勢の里の初優勝が決まり、横綱昇進を引き寄せた。そして迎えた千秋楽結びの一番、稀勢の里は土俵際まで追い詰められながらもすくい投げで白鵬を下し、堂々と優勝賜杯を胸にした。

 中学卒業後すぐに15歳で入門した「叩き上げ力士」が、苦節15年で掴んだ悲願の初優勝。30歳、新入幕から73場所での昇進は、昭和以降で最も遅い記録だ。日本中が待望したと言っても過言ではない、3代目若乃花以来、19年ぶりの日本出身横綱誕生という歴史的な栄誉を、やっとその手中に収めたのである。

2017年、初場所で優勝 ©文藝春秋

中学時代はエースで4番の野球少年だった

 稀勢の里――本名・萩原寛(ゆたか)は、元アマチュアボクサーの父と一緒に、相撲を見るのが好きだったという。水泳のほか、小学3年からは地元の少年チームで野球をはじめ、中学時代はエースで4番。3年時には野球強豪校からスカウトの声が掛かるほどの逸材だった。しかし、萩原少年は、自ら未知の相撲界に飛び込む決意を固めていた。この決断について、かつて稀勢の里はこう語った。

「中学生なりに冷静に分析しました。これだけ野球人口がいて、自分はプロになれるのだろうか。野球を続けても自分の実力では難しい、と思ったんです。中学2年の秋には相撲界に入ることを決めていました」

性格は“ザ・B型”

 すでに体格は180センチ、100キロ近くあった萩原少年は、02年春、猛稽古で名を馳せた鳴戸部屋の門を叩いた。師匠の鳴戸親方(元横綱隆の里、11年に死去)が、その体と可能性に一目惚れしたという。10歳年上で兄弟子にあたり、今も稀勢の里と同じ田子ノ浦部屋に所属する西岩親方(元関脇若の里)が、当時を懐かしく振り返る。

「体が大きくて中学生離れしていました。運動神経もよく、なかなかこういう新弟子には出会ったことはありませんでしたね。性格は“ザ・B型”ですよ(笑)。周りを気にせず我が道を行くタイプで、人の話はあまり聞かない。ただ、スポーツ選手ではそのほうが大成するんです。同期生や同年代のなかでは、やんちゃというか、どこか“お山の大将”的な気質もありましたねぇ」

 入門当時、すでに三役力士として活躍していた西岩親方は、「萩原を強くしろ」と先代師匠の命を受けた。泥だらけになり髷の原型が崩れるほど、ときに100番にも及ぶ猛稽古をつけた。早朝5時から始まり、昼過ぎまで延々と続く鳴戸部屋の朝稽古だったが、稀勢の里だけは午後からも一人、黙々と稽古をするほど、「強くなること」に貪欲だった。

「今の稀勢の里は左四つを得意としていますが、基本は“押し”なんですよ。最初の頃は、とにかくひたすらに押すことだけやらせて、まず馬力をつけさせた」(西岩親方)

「早熟で晩成」

 鳴戸部屋を継承し、現在の師匠にあたる田子ノ浦親方(元幕内隆の鶴)も、「素直なのが稀勢の里の最大の武器」と評す。稀勢の里は言う。

「自分は相撲経験がほとんどなく入門したし、右も左もわからなかった。だから先代師匠が指導してくれるままに稽古をしました。そのうちにどんどん体も強くなり、ケガもしない体になりました」

 自らを「早熟で晩成という珍しいタイプ」という稀勢の里は、04年5月、17歳9カ月で十両に昇進し、同年11月には18歳3カ月で新入幕。いずれも貴乃花親方(当時は貴花田)に次ぐ史上2位のスピード出世記録だった。06年7月には、20歳の誕生日を目前にした19歳の若さで新三役昇進。しかし、ここから大関昇進まで約6年のあいだ、失速し、足踏みをする。

ライバルと目されていた琴欧州と ©共同通信社

 西岩親方は、「それまでが早すぎたから、他に比べれば遅いと言われるだけ」というが、同じくスピード出世を争い、ライバルと目されていた琴欧洲(現鳴戸親方)は、05年11月場所後に大関昇進。その後も琴光喜、日馬富士、把瑠都、琴奨菊と、次々に先を越され、その背中を見続けることになってしまった。