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佐藤 祥子
2017/03/19

稀勢の里が語る 白鵬との「一番」、屈辱の一年

「我慢と辛抱」の精神で15年目に掴んだ栄冠

#1より続く)

白鵬との「一番」

 自らを「ポジティブで前向きな性格。嫌なことがあっても顔を上げているタイプ」と評す稀勢の里は、白鵬との一番についてこう語った。

「みなさんが応援してくれて、『うわ~!』っと凄い歓声のなかで相撲を取れるのは、本当に幸せなこと。特にこの時の一番は、国技館の1万人の方々の声援がもの凄かった。みなさんの声の圧力で体がつぶされるような、胸が押さえつけられる感覚があった。あれは初めての経験でした。水深250メートルにいるような感じで、空き缶だったら、もうつぶれている(笑)。これはなかなかできない経験です。優勝決定戦だったらまた違うでしょうし、それが楽しみでもあるんです。そういう声援をもらえる相撲を、毎場所、毎日取れるように頑張っていくしかないですね」

 もちろん、これは悔しさを噛みしめ、乗り越えての言葉でもあった。

「“負け”もそうです。悪い物はすべて引きずらずにそこに置いていく。相撲は一場所15日間あり、一発勝負じゃないですから。さすがに落ち込む相撲もありますけど、負けには必ず原因がある。原因を追究しないままではダメで、そこはしっかりと反省していますから」

大相撲初場所千秋楽  稀勢の里(左)がすくい投げで白鵬を破った ©共同通信社

実は「おしゃべり野郎です」

「え? 稀勢の里ってこんなに喋るの?」と、意外に思われる読者もいるかもしれない。テレビなどのメディア出演を極力避け、「勝っても負けても感情を表すな」というのが先代師匠の“鳴戸イズム”。それが徹底的に染み込んでいるのが稀勢の里なのだ。不器用な性格もあり、土俵上では寡黙で真摯に、愚直なほどに、力士としての矜恃を体現する。

 しかし、土俵を下りたその素顔は、「自分はおしゃべり野郎ですから(笑)」というほど、実は話好きで明るい性格なのだ。巡業先の支度部屋で報道陣に囲まれて談笑し、大きな笑い声が響く光景は珍しくない。

 では本来は“切り替え”のきくはずの稀勢の里が、なかなか初優勝に届かなかった要因はなんだったのだろうか。周囲から「横綱に一番近い大関」「大きなケガもなく丈夫」「安定感は随一」と言われ続け、稽古もすでに充分だったはずである。

 稀勢の里同様、大関在位32場所と横綱昇進が遅かった武蔵川親方(元横綱武蔵丸)は、こう分析する。

「僕の場合は、毎日浴びるように飲んでいた酒を辞めた途端、昇進できたんだけどね(笑)。稀勢の里の場合は、大関昇進と同時に師匠を亡くしたことが、精神面で大きかったと思う。横綱や大関となっても、体と心が噛み合わなかったり、自分の相撲がなかなか取れないこともある。そんなときに師匠の一言やアドバイスで気持ちが変わったり、目の前が開けたりするんです。彼はそれができなかったんだよね」

 15歳から仰ぎ見ていた師匠という“指針”を失った。孤軍奮闘し、一人でもがき続け、ひたすら相撲に打ち込むほかなかった。

屈辱の一年

 特に昨年は、もがきにもがいた。初場所は9勝6敗と2ケタ勝利は叶わず、琴奨菊が日本出身力士として10年ぶりの初優勝。続く3月場所は、初日から10連勝しながら11日目に白鵬、12日目に日馬富士に破れ、13勝2敗の優勝次点で終わった。5月場所は3度目の綱取りとされ、連勝を続けるが13日目・14日目と白鵬・鶴竜に連敗。またもや13勝2敗の優勝次点で終わる。

 4度目の綱取りとなった7月場所は、13日目、2敗同士の日馬富士に破れて優勝争いから後退。14日目に取り直しの一番で白鵬を破るが、日馬富士に優勝を許してしまう。5度目の綱取りとして挑んだ9月場所は早々に優勝戦線から外れ、10勝5敗で終わる。豪栄道の初優勝に臍(ほぞ)を噛み、3場所連続での綱取りは振り出しに戻った。11月場所では三横綱を撃破した翌日、平幕の栃ノ心に敗れる。12勝3敗でまたもや次点、優勝は鶴竜にさらわれた。

 通算優勝次点(準優勝)の場所は実に12回にも及び、昨年は9年連続受賞の白鵬に代わり「優勝なしの年間最多勝」を手中に収め“無冠の帝王”となる。八角理事長を始め、「すでに実力は充分。あとは初優勝だけ」と周囲に言われ続け、はがゆさも極まった屈辱の1年だった。

 西岩親方が、この1年の稀勢の里の心中を、こう察する。

「同じ大関の琴奨菊、豪栄道らに次々と先を越されて優勝されてしまったのは、相当に堪えたでしょう。苦しかったと思いますよ」

 稀勢の里自身も、「あと一番足りない場所が何度も続いた。目の前で優勝が決まった相撲を何番も見てきましたし、本当に悔しかった」と、この1年間の心情を吐露していた。

表情にあらわれた「進化」

 しかし、大一番に勝てないメンタルの弱さを、さんざん指摘され続けていた稀勢の里にとって、まさにこの1年の苦悩こそが実践的なメンタルトレーニングとなっていたのだ。

 それは、土俵下での表情の変化にも表れていた。それまでの稀勢の里は、土俵下の控えで緊張のあまりか顔を赤らめ、目をパチパチとしばたたかせる癖があった。5月場所からは、口角を上げて微笑みを浮かべるような表情に変わる。本人に問うと、「特に意識してやってるわけではない」と否定したものの、今年の初場所では、その笑みも消えた。代わりに「不機嫌そうな不遜な顔」で控えに座り、出番を待つ。その表情ひとつに平静を保つべく試行錯誤する、稀勢の里なりの進化が読み取れたのだ。横綱昇進の使者を迎えた記者会見で、稀勢の里は言った。

「この1年で成長したと思います。もちろん去年だけではないけれど、その結果も経験もそれが生かされての初場所(の優勝)だったと思います。先場所(九州場所)あたりから気持ちの部分でも落ち着いて、平常心で相撲が取れていました」

足りないのは「自信」だけだった

 昨年1年間の屈辱を糧にし、九州場所でさらなる手応えを感じた稀勢の里は、この初場所に、2017年に賭けた。

 九州場所後の冬巡業を首の痛みで途中離脱し、帰京した稀勢の里は、治療に専念。ある日、田子ノ浦部屋と同じ東京・江戸川区内にあり、力士たちが出稽古に行き合う武蔵川部屋に、稀勢の里がひとり現れた。武蔵川親方は言う。

「12月の22日だったかな。『うちの部屋は土俵を崩して(作り直して)いるから、四股を踏ませてください』と来たんだよね。黙々と2時間くらい準備運動していましたよ。四股も稽古も充分足りている。足りないのは、きっと“自信”だけだったんだと思うな」

 母の裕美子さんも、愛息の変化を感じていたという。

「毎年、お正月には私の出身地である新潟県ののっぺい汁を食べに、たとえ2時間でも帰って来ていました。でも今年は初場所が早く始まる日程だからと、帰省しませんでした」

 今場所はプレッシャーを感じずに臨めた場所でもあった。場所前には「先場所の稀勢の里は優勝に絡まない次点。次の初場所で13、4勝しても(昇進には)賛成しかねる」との横綱審議委員長の言葉もあり、綱取りの重圧から一時でも解放されていたのだ。さらに今場所は“運”も味方した。日馬富士と鶴竜の二横綱が休場、13日目には豪栄道に不戦勝で星が転がり込み、同部屋の弟弟子である高安が2敗で追う貴ノ岩を下して援護射撃する。そして14日目には、前述の通り、貴ノ岩が白鵬から大金星を上げ、稀勢の里の涙の初優勝が決まったのだった。

 今場所の稀勢の里は、運をも引き寄せ、最大のチャンスを、まるで相手のまわしを掴むようにしっかりと握り、離さなかった。

 キリリとした表情で昇進伝達式後の会見に臨んだ新横綱は、澄み切った目でキッパリと言い切った。

「もっともっと稽古して期待に応えられるように、もっともっと強くなって、みなさんに恩返しできるように。毎場所優勝争いに加われるようにと思っています」