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“UFOを流行らせた男” 矢追純一81歳「空を見上げてほしかった」

矢追純一が語る「UFOとテレビ黄金時代」 #1

2017/03/19

 矢追純一。その名は、1970~80年代を生きた日本人に強烈な印象を残している。80年代に幼少期を過ごした私も、日本テレビ『木曜スペシャル』のUFO特番や超能力特番に熱狂した。まだ家と学校の中だけで生きていた時代、矢追さんは世界の不思議への案内役だったのだと思う。だが、大人になってテレビ史を研究する中で、彼は何よりも伝説のテレビマンだったのだと気づかされた。そして、テレビマンとしてのお話を聞いてみたいと思った。

 待ち合わせの喫茶店に現れた矢追さんは、赤いダウンジャケットを着込み、81歳とは思えないような若々しさだった。インタビューでは、「テレビの黄金時代」を知る一人のテレビマンとして、黎明期のテレビからドキュメンタリー論、さらには現在のテレビについてまで、熱く語ってもらったーー。

 

社内のダメなやつが集まってできた『11PM』

―― 今日はテレビマンとしての矢追さんに迫りたいと思いまして……

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(照れながら)そんな、話すことなんてないよ。

―― 日本テレビに入社するにあたって、こんな番組を作りたい、といった思いはあったんですか?

 そんなの全然ありません。当時、テレビなんか誰も知らないんです。唯一知ってるのは力道山のプロレスぐらい。大学生のころ、エレベーターボーイのバイトをしてたんだけど、あるとき、月に1回だけ来るおじさんが、「矢追君、就職決まったの?」って聞いてきたんです。「いや、何も考えてません」って答えたら、「じゃあ、日本テレビ見てみたい?」と言うので、見に行ったの。

―― 初めて見るテレビ局はどうでしたか?

 スタジオを見たら、何もないだだっ広いところに、電気がいっぱいぶら下がってた。ここにリングを組んで、力道山の試合をやるんだろうなって感じだったね。だから、力道山の会社かもしれないと思ったんですよ。で、「この会社受けてみる?」と言われて、「はい」と。当時、推薦がないと試験を受けられなかったんで、そのおじさんが推薦してくれた。後で聞いたら、日本テレビの著作権課長の戸松信康さんだったんです。

 

―― すごい運命的な出会いですね。入社してからは、すぐに番組制作へ行ったんですか?

 いきなり演出部に配属されたんです。最初はドラマ。全部生放送のね。当時は、VTRって高いんです。しかも編集するには、定規を当てて切った箇所に、銀紙を貼って繋ぐんです。手で貼るから、熟練しないと無理なの。

―― 手作業だったんですか。

 そう。しかも1カ所5万円なんですね。だから、誰も使わない。

―― ドラマの番組名は、覚えてらっしゃいますか?

 本間千代子主演の『チコといっしょに』とか、中山千夏が出てる『現代っ子』とか。レギュラーで結構やってたんだけど、何せドラマが嫌いなので。

―― えっ、ドラマがお嫌いなんですか?

 あれくらい世の中に悪いものはないと思ってるんです。ドラマって、人間として一番ダメなところを拡張する代物なんですよね。今、映画なんかもそうだけど、一生懸命感情をくすぐって泣かそうとするわけですよ。「絶対泣けます」みたいな。バカじゃないかと思ってるんですよ。人は、つらいことがあって泣くんだけど、つらいことはないほうがいいわけじゃない。それなのに、負の感情を植え付けようとするのがドラマなんです。ホームドラマにしても、何とかしてニコニコ気分よくしようとする。要するに、感情を左右しようとするんだよ。くだらないんだよな。

 

―― ドラマをやめて、ドキュメンタリーを撮るようになるのは、いつ頃からですか?

『11PM』が最初ですね。ドラマをクビになってから、音楽番組やったり、寄席の番組までやったりね。バラエティーも結構ありました。でも、みんなつまらなかったんだよね。それで腐っていたときに『11PM』ができたので、「拾ってください」とプロデューサーに頼んで入れてもらった。

―― 深夜の情報番組である『11PM』は、かなり自由度が高かったと聞きましたが……

 そうですね。当時、深夜番組ってなかったんですよ。11時にはみんな寝静まっていたから、スポンサーも付かないしね。だけど、何とかして深夜番組をやりたいという勢いがプロデューサーにあって、スポット売りにしたんです。問題なのはスタッフがいないことなんですよ。一人で何本も番組を担当してた時代だから、みんな忙しい。しかも、視聴率がゼロに近いと思われる番組に、自分の手下を貸そうという人間が一人もいないわけですよ。しょうがないから、プロデューサーが社内のダメなやつばかり探してくるわけ。あらゆる部署に行って、余りものを集めたんです。

―― プロデューサーは、どなただったんですか?

 後藤達彦です。今考えても、日本で一番いいプロデューサーでした。「お前ら好きなものやっていいぞ。ケツは俺が拭くからな」という太っ腹な人だったね。日テレには、ほとんどヤクザみたいなやつとか、悪いやつとかもいて、ムチャクチャだった。今みたいに管理されている社会ではないからね。そういう意味では、あの時代の中でも日テレが一番おおらかだったんじゃないですかね。