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井上 文則
2017/03/24

教科書に載っていない世界史 EUと多くの類似点があるローマ帝国滅亡の理由 

ローマ帝国滅亡 476年

壮大なインフラ、都市文化が姿を消した。
帝国滅亡にとどまらない文明崩壊はなぜ起きたか。

◆ ◆ ◆

 2015年、EU(欧州連合)にシリア、アフガニスタン、イラクなどから、100万を超えるイスラム系の難民が押し寄せた。

 大量の難民の受け入れを巡ってEU諸国は動揺し、難民受け入れを積極的に進めたドイツのメルケル首相は、内外から批判を浴び、苦境に立たされた。難民危機の中、フランスのパリでは11月13日に同時多発テロが起こり、12月31日にはドイツのケルンなどの都市で主に女性に対する大規模な略奪、暴行事件が起こった。いずれの事件にもイスラム系難民を装った者が関与していた。翌2016年の6月にはイギリスが国民投票の結果、EUから脱退することになったが、これには前年からEUを揺るがしていた難民危機も大きく影響したことは疑いないだろう。難民危機を前に、各国では排外主義が広まり、世論は右傾化している。離脱ドミノが起こることで、EUそのものが崩壊することが現実味を帯びてきた。

 難民危機に直面するEUの姿は、ローマ帝国末期の姿を彷彿(ほうふつ)とさせる。ヨーロッパのみならず、中東、北アフリカにまで広がった巨大な領土を500年以上支配した帝国ローマも、「ゲルマン民族の大移動」と呼ばれる、ゲルマン系の大量難民の波に4世紀以後襲われ、排外主義が高まる中、5世紀に滅亡したからである(この点は現段階ではEUとは異なるが)。

 問題はEUという組織の崩壊だけには留まらない。フランス国民戦線のマリーヌ・ルペン党首は、2015年9月に「フランス国民の行動が皆無なら、私たちが被っている人口移動の侵略は4世紀のそれに何ら劣らず、同じ結果をもたらすだろう」と述べ(墓田桂『難民問題』中公新書)、フランスの文明の行く末に危機感を示した。ルペンの発言には扇動的であるとの批判も多い。しかし、難民問題に加えて、既存のイスラム系移民を多数抱えるEU諸国にとっては、文明のあり方そのものが4世紀以来の大きな変化を被(こうむ)る可能性は否定できないだろう。

 2050年には、イギリスやフランスなどの西欧諸国では、イスラム教徒の増加で、キリスト教徒の人口が半数を割り込むという予測もある。これからのEU、あるいはEU諸国の文明の行く末を考える際に、ローマ帝国末期の事情を知ることは無駄ではないだろう。

滅亡は難民問題から始まった

 ローマ帝国の滅亡は、難民問題から始まった。ローマ帝国の国境の一つであったドナウ川の北方には、ゲルマン系のゴート族が広く居住していたが、ゴート族は370年頃から遊牧騎馬民族フン族の攻撃を受け、一部は征服され、一部は征服を免れたものの、フン族の攻勢を支えることはできず、郷里を捨ててローマ帝国内への移住を求めてきた。376年夏のことである。時の皇帝ウァレンスは、ゴート族の求めに応じ、彼らを帝国領内に受け入れた。

 

 ウァレンス帝には、折からの帝国の兵力不足を新来のゴート族で補おうという魂胆(こんたん)があった。現在のドイツが難民を受け入れた思惑に労働力の確保があったと指摘されていることが想起される。正確な数字は分からないが、こうして20万とも言われる膨大なゴート族がドナウ川を渡った。これがローマ帝国を滅ぼすことになる「ゲルマン民族の大移動」の始まりとなった事件であり、今日の言葉で言えば、難民、それも部族単位を維持した大量難民の到来に他ならなかった。当時のローマ帝国の人口は、5000万から6000万程度。EUの人口が2015年で5億820万人であるので、ゴート族のインパクトは現在のイスラム系難民の比ではなかったのである。

 大規模な難民の受け入れは現代の国家をしても至難の業である。案の定、ローマ帝国政府によって杜撰(ずさん)な扱いを受けたゴート族は、翌年には蜂起(ほうき)し、バルカン半島を荒らし始めた。鎮圧に向かったウァレンス帝は、378年8月にアドリアノープル(現トルコのエディルネ)で、ゴート族と会戦し、戦死してしまうという事態に至った。

 ローマ帝国には、ゴート族が大挙して押し寄せてくる以前から、移民として多くのゲルマン系の人々が入っており、特に軍内では高位高官に上る者も少なくなかった。しかし、アドリアノープルの戦いの後、帝国内では、こうした平和裏に移民として入ってきていたゲルマン系の人々をも排撃すべきであるという考えが広まっていく。京都大学の南川高志は、この現象を「排他的ローマ主義」と呼び、これがローマ帝国を滅ぼすことになったと主張している。

 ウァレンス帝の後継者となったテオドシウス帝は、ゴート族と一進一退の戦いを長く続けたが、結局、ゴート族を帝国領外に追い出すことも、殲滅(せんめつ)することもできずに、382年には彼らにバルカン半島の土地を与えて、帝国内での居住を認めざるをえなくなった。ローマ側にとっては苦渋の選択によって、ゴート族の難民問題は一旦解決したかのように見え、実際ゴート族はテオドシウス帝一代の間は落ち着いていた。

 しかし、テオドシウス帝が395年に没した後、帝国は東西に分裂。さらに東西帝国の対立が鮮明になると、この機に乗じて、ゴート族は再び動き始めた。ゴート族は、その矛先を脆弱(ぜいじゃく)な西ローマ帝国に向けた。なお、ここでのローマ帝国の滅亡とは、西ローマ帝国の滅亡を指す。