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楠木 建
2017/04/11

「勝ち組・負け組」と騒ぎ立てる人のイヤらしさ

楠木建の「好き」と「嫌い」――好き:出たとこ勝負 嫌い:勝ち組・負け組

「勝ち組・負け組」の姑息

 それと対照的に実にイヤなのが、何かというとすぐに「勝ち組」とか「負け組」とか騒ぎ立てる手合いである。

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 この言葉が生まれた背景にある在外日本人の悲しい歴史はさておいて(ご存知ない向きは各自調べてください)、現行の意味合いでの「勝ち組・負け組」、これほど下品な物言いもめったにないと思う。「勝ち組・負け組」という言葉を見たり聞いたりするたびにたまらなくイヤーな気分に包まれる。その背後にある思考様式が大嫌いなのである。

 勝負とか勝つとか負けるとかいうのは基本的に自らの能動的な行為でありその結果である。にもかかわらず、話が集団への帰属にすり替わっている。自分はその「組」に入っているだけ。勝負が自分の意思による選択や行為ではなく、どこか受動的というか、他人事になっている。

 勝負は自分以外の誰かにしてもらうとして、自分はなんとか勝ち組に入れてもらいたいという卑屈さがぷんぷんする。一丁うまいところに入って、いい思いがしたい。すでにそこにある「勝ち」に乗っかって、ああ自分は勝ち組なんだと安心したい。負けるにしても、それは自分のせいではなく、自分が負け組に入っているから。誰かのせいで貧乏くじを引いたという被害者意識が透けて見える。

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 どっちにしても実に姑息である。

 まんざらでもない顔をして「俺は勝ち組だから……」とか悦に入っている輩は、その時点ですでに負けている。実際のところ「負け組筆頭若頭補佐代理」のようなものだ。いまは勝ち組にいるにしても、未来永劫安泰であるわけがない。個人の地力がなくては、いずれは負けてしまう。で、負けたら負けたで「どうせ俺たちは負け組だから……」と「組」に責任転嫁する。

 いずれにせよ、自分で勝負に出ていないことには変わりはない。

「勝ち組・負け組」とか言っている連中に言いたい。

 勝ち負けぐらいで「組」になるな。勝負は一人で勝手にやれ!