文春オンライン

孤独な人間同士の深いつながりを描いた最新刊『光のない海』を発表した現在の心境――白石一文(1)

話題の作家に瀧井朝世さんが90分間みっちりインタビュー 「作家と90分」

2016/01/23

genre : エンタメ, 読書

note

結局、書くのは自分の心境なんです

――水入れの話ともうひとつ、空飛ぶ蛇の話もきっかけだったそうですね。主人公がネットで樹から樹へと飛び移る蛇の映像を見る場面があります。本に書かれてある通り検索すると実際にその映像が出てくるので、白石さんもそれを見たのだろうと思いました。

 

白石 そうです。誰かから聞いてYouTubeで検索したんです。本当に蛇が身体を平たくして飛んでいて、まるでCGのようでした。飛べないはずのものが飛んでいる姿に意表をつかれて、これはぜひ使ってみたいと思いました。特に今回の主人公は性的不能者なので、性欲の象徴である蛇はぴったりだったんです。それで、水入れのボトルも海蛇の装飾が施されたものということにしたんです。他にも「蛇」は何度も作中に出てきますよね。

――そうしたエピソードを盛り込むことは決めていたわけですが、全体的なテーマやコンセプトは事前に頭にあったのでしょうか。

ADVERTISEMENT

白石 そういうことを事立てて考えることはしないですね。結局、書くのは自分の心境なんです。自分の心境を小説に書くことが世間にとって何の意味があるのかよく分からないけれども、でもそれが書きたいことの中心なんですよね。心境といっても箪笥のようにいろんな引き出しがあって、いろんな心境があるんです。そのなかでふっと目に入った心境というものが、その時々の小説になっていく。

 今回だったら、まあ、人と人とが分かり合うとか、理解し合うとかいうことですよね。それをさらに先鋭化すると、愛し合うとか、一生を共にするとかいうことになります。私の場合、分かり合うとか理解し合うってどういうことなのか、小さい時からずっと悩みつづけているんですね。

 で、そうやって悩みつづけていれば、だんだん経験的な答えがはっきりしてきそうなものでしょう。自分自身もそれを当てにしていたんです。そして今、自分にとっていちばん目立つ引き出しがその心境なんですが、感じているのは「あ、人と人とは結局分かり合えないんじゃないかな」ということなんですよ。

 20年間一緒にいる夫婦でも、仲が悪いわけではないのにお互いのことがまるで分かっていない。水と油をドラム缶にいれて20年間必死にかき混ぜても、やっぱり水と油に分離してしまうようなところがある。そうなると、人はなぜ人と一緒にいるのかなって素朴に思いますよね。

 ぱっと思いつくのは、「温かさ」だったりします。たとえば冬でも一緒に寝ていると温かい。ひとつ屋根の下に二人で住んでいると一人よりも温かい。食べる時も一人よりも二人のほうが、まああったかいといえばあったかい。それをもって動物的というかどうか分かりませんけどね。何しろ、何十年ものあいだ夫婦生活を続ける動物なんて人間以外にそれほどいるとは思えないので……。

 人間にとって最大の武器といえば言葉だと思われているけれど、それも、相手の心に自分の言葉を突き刺し、向こうの言葉が自分の心に突き刺さり、なんてことは現実にはそんなにありませんよね(笑)。人は自分に都合の悪い話には耳をふさぐのが常ですから。

 そうなると、なぜ人と人は一緒にいるのかという一番の理由は、もしかしたら、この20年なら20年、15年なら15年の生活を共有して、ほぼ同じ記憶を所有しているからなのかな、となってくる。たとえば野球の試合を一塁側と三塁側で見ていても、ゲームの進行は同じように分かる。それと同様で夫婦や家族というのは、ひとつのスタジアムで違う角度からひとつの経験をリアルタイムで味わっていて、その時間を共有したという記憶が大切なのかな、と。でもそこで「いやいや待てよ」となるんです。「そんな簡単なものでもないんじゃないの? だとすると何?」と考え込んじゃう。

 そうなった時に、これはもう今まで自分がずっと書いてきたことに近づくんですけれど、たとえばその人が彼なり彼女なりとはじめて出会ったその瞬間の印象とか、もう忘れてしまった何かの出来事とかが、案外決定的だったんじゃないかと思うわけですよ。平たく言うと「縁があった」みたいな話ですよね。

 我々は結果としてついてきたものに対してはすごく価値を認めるけれども、実際は、そういう結果とはぜんぜん違うところに大事なものがあるのかなというのを、最近すごく思うんですよね。

 人と人とが出会って長い時間を過ごすうちにお互いのことを理解しあって「あの人のことは自分が一番よく知っているから」と言うのはすごく美しいけれど、でも、本当は全然そうじゃない。「よく知っている」なんてキレイごとで互いのことなんて何も分かっちゃいない。だけれどもなぜかずっと一緒にいる。それは惰性であったり、習慣であったり、偶然であったりといった言葉でとかく片づけられてしまうわけですが、でも、ものすごくロマンティックな言い方をすると、これほどの数の人間たちがいるなかで、よせばいいのにその唯一の人と何十年も一緒にいて自らの人生を費やしてしまうのには何か理由があって、私たちが忘れてしまっていることや、日々の経験の積み重ねのなかのはっきりと見えていない部分にこそ、その本当の理由があるんじゃないかと思うんですよね。

 そういうことを小説に書きたいって、ずっと思ってきたんです。たとえばこの小説の主人公である高梨修一郎という男と筒見花江という女性は、別に恋愛関係になるわけでも、肉体関係を結ぶわけでもないけれども、肝心な時にお互いに助け合ったりする。そこには何も理由はないように見えるけれど、実は理由がある。

 それが何かは幾ら小説であってもはっきりと書けるものではないんですが、そうはいっても、あの水入れの存在が最も大きい――私としてはそういうことが言いたいわけです。この小説では、いかにも人と人とが支え合うことが大事なんだと書いているように見えますが、実はそうではなくて、小説の肝の部分というのは、「とにかくこの不思議な水入れが二人の間に存在していた」ということなんですよ。

 誰かと誰かが深くつながるについては、それがいいことであっても悪いことであっても、間に何かそういうものがある、不思議で変なものがある、ということが言いたいわけです。分かります?

――分かります。