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孤独な人間同士の深いつながりを描いた最新刊『光のない海』を発表した現在の心境――白石一文(1)

話題の作家に瀧井朝世さんが90分間みっちりインタビュー 「作家と90分」

2016/01/23

genre : エンタメ, 読書

「自分はこれ以上は無理だ」と思った瞬間

――『涙の化石』と『一瞬の光』は違う作品ですか。

白石 いえ、『涙の化石』をさらに長くしたものが『一瞬の光』です。あの小説に出てくる「中平香折」という若い女性にはモデルがいるんです。一回、彼女が子供の頃に使っていた布団を見せてもらったんです。小説にも書いていますけれど、彼女は幼少期からひどい虐待にあっていてずっと泣きながら眠ってきた。毎日、涙でぐしょぐしょになった布団を乾かし、またその布団で泣きながら眠って生き抜いたんです。あんな布団は見たことがなかった。でも彼女にはそのぼろぼろの布団をどうしても捨てることができないんですよ。それで思いついたのが「涙の化石」というタイトルだったんです。もちろん、本人から書いてもいいという許可をとって書きました。というより、もともとその人に「書いてほしい」と言われて書いたんですよね。

 で、書き直したものを講談社に送っても何の返事もない。とうとう40歳になってしまっていましたし、モデルになった女性に対しても責任を果たしたかった。それで講談社に催促の電話をしたら、担当の方が電話口に出てきて「とにかく会いましょう」と言う。さんざん待たされた挙句、「とにかく会おう」なんて言われるのは駄目の返事に決まっているから、「どうなんですか?」って訊ねたら案の定でした。「だったら会う必要はありませんから原稿だけ送り返してほしい」と頼んで、すると原稿と共に作品を全否定する長文の手紙が届いたんです。でも、あのときは不思議と全然へこたれなかった。それよりだいぶ前、「不自由な心」という250枚くらいの中編小説を講談社の別の編集者の方に酷評されたときは、ショックと悔しさで頭がどうにかなりそうになったんですが、『一瞬の光』のときはそうならなかった。すでに病気をして会社人生を棒に振っていたし、逆にある意味、開き直ることができたんでしょうね。それから今度は集英社の人にも読んでもらったんですが、集英社の編集者も全否定で、「白石さん、一体どうしたんですか」って真剣に心配される始末でした(笑)。

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――「どうしたんですか」って、それまで書いていたものと全然違ったからですか。

白石 違うということもあるし、なにしろ主人公が東京大学法学部を主席で卒業して、三菱重工みたいな巨大企業で飛びぬけた出世をしているスーパーエリートで、顔は反町隆史みたいなわけでしょう(笑)。そりゃあみんな、「なんだこいつ」って思ってしまうわけですよ。あげく彼はめちゃくちゃにモテる男なんですから。私自身はそんなに女性にモテた経験もないんですが、それでも、こういう人物なら書けるという人を書いたんですよね。そんな主人公を書ける物書きは他にいないだろうと思っていましたから。

――たしか『一瞬の光』を書き上げた直後、つまり講談社や集英社から原稿を突き返される一年くらい前にパニック障害になったんでしたよね。具体的にはどういう状況だったのですか。

白石 そうなんです。だから『一瞬の光』は脱稿して出版されるまでに二年くらいかかっているんです。あれを書き上げた頃って、ちょうど『諸君!』という雑誌で大きな政界のスキャンダルを追いかけていて、それが記事になって国会でも問題化したりと大変な時期だったんです。「文藝春秋」編集部時代に手がけた霞ヶ関関連の記事で長期にわたる名誉棄損裁判も抱えていました。また、それとは別に会社の組合の委員長もやっていて、賃金交渉とかボーナス交渉とかでもおおわらわでした。一年前にすでに家を飛び出して、残してきた息子のことが心配で心配でひどい不眠症と精神不安に陥ってしまい、睡眠薬と抗不安薬をじゃんじゃん飲んでいたんです。六畳くらいの狭いワンルームでの独り暮らしで、お金もぜんぜんなかった。いま考えると、とても長続きなんてできない生活ぶりでしたね。それでもようやく仕事や組合の交渉が一段落して、これでやっと小説に集中できるという時間が生まれた。すでに第一稿は完成していたので、さっそく手を入れていこうと思って机に置いた原稿に指をかけた瞬間に、ふっと、「ああ、俺はもう駄目だ」と思ったんですよね。あの瞬間のことは、今でもなるだけ思い出さないようにしているんですけれど……。

 人間って忍耐力の限界があるというか、ずっと寝ないで仕事をして小説も書いてきたわけでしょう? それを10年やってきた。家族も失って、息子と別れて丸1年が過ぎていて、要町の狭いアパートに住んで、身体もガリガリに痩せ細って、それでも何とか1200枚の小説を書き上げ、その小説をぺらっとめくろうとした瞬間に「これ以上はもう無理だ」と思ったんです。「ああ、これで俺はもう終わりだ」って。その瞬間に物凄い発作が襲ってきました。客観的に見れば、そうは言っても絶望的な状況ではなかったと思いますよ。自分としては傑作を書き上げたと思っているし、編集者としての仕事もかなりうまくいっていた。それなりの希望はまだ残されていたんです。でも、たった一言、「自分はこれ以上は無理だ」と思った瞬間に、全身がガタガタ震え出して、歯の根も合わなくなって、呼吸は加速度的に苦しくなっていって、狭いアパートで七転八倒するわけにもいかず、もう何をどうしたらいいか分からなくなってしまった。

――まさにパニック発作ですよね。

白石 私はずっと、二兎を追っていたわけですよね。作家にもなりたいし、文春ではいずれ「文藝春秋」の編集長になると信じてもいた。ところが、この一度のパニック発作で会社人生の方が完全に吹っ飛んでしまった。何しろ、総務に断りもなく、そのまま故郷の博多に帰っちゃったんですから。

 結局、7か月休職したんです。休職中は一度も東京には行けず、弟の文郎が上京して会社の人と話をしてくれて、要町のアパートも引き払ってきてくれた。最初は会社を辞めるつもりでしたが、結局は戻って資料室に復職しました。

――『一瞬の光』は結局角川書店から刊行されます。その経緯を教えてください。

 

白石 文春の組合の副委員長をやっていた、いまは国際局長をやっている下山進という人がいて、復職した私にそのシモちゃんが「白石さん、会社では先もないだろうし、これからどうするの?」って言うんです。「フロッピー2枚分の小説があるんだよね。俺にはこの先、もうこれしかないと思ってる」と言ったら「だったら読ませてよ」と言って読んでくれたんです。そうしたらすぐにやってきて「白石さん、これ傑作だから本にしよう」と言うんです。「講談社でも集英社でも駄目だったよ」と言ったら「同業者が書いたって言ったのがまずかったのかもしれない。僕の大学時代の友達が書いたってことにして持ち込もうよ」と。で、現在はKADOKAWAの文芸部門の責任者になっている郡司聡さんのところに郡司さんの奥さん経由で、というのも奥さんの吉田尚子さんが文春の編集者だったんですが、持ち込んでくれて、そこから当時の文芸の部長だった宍戸健司さんに原稿が回り、宍戸さんが一発で出版を決めて下さったんです。

――刊行当時から話題になりましたよね。

白石 なぜか話題になったんです(笑)。新人が1200枚書いた2段組みの単行本なんて今どき誰が買うかって話ですけれど、思えば、あの頃はいい時代だったと思います。そこはすごく運がいいですよね。サラリーマンとしてはもうどうにもならないことをしちゃったと思っていたから、やっぱり二兎を追わないほうがいいんだ、なんて平凡なことを感慨深く感じたりしてましたね(笑)。

――そこから、以前書いてあったものを数冊出したわけですね。

白石 当時はまだ、たまにパニック発作が起こるわけだから、原稿に手を入れるくらいのことはできるけれど、新作はとても書けないんですよ。あんまり根を詰めたりするとまた発作が起きるんじゃないかという恐怖がありましたね。

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