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ロシアの“国民的作家”ドンツォワが嫌われる理由

累計5000万部以上の小説を、誰が読んでいるのか

2017/04/12
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 ダリア・ドンツォワの名を知る日本人はどれくらいいるだろう。日本ではほぼ無名と言っていいであろうこの人物は、ベストセラー作家としてロシアで知らない者はいないほどの超有名人である。

「私立探偵の恋人 ダーシャ・ワシリエワ」シリーズでおなじみ

 この10年だけでも累計5000万部以上を発行するお化け作家。これまで数々の文学賞を受賞し、2006年から11年連続でその年最も活躍した作家に選ばれている。2015年に行なわれた世論調査では、好きなロシアの作家としてプーシキン、トルストイ、ドストエフスキー、ブルガーコフに次いで5番目に名前が上がるほどの人気度と知名度を誇っている。

 ジャンルとしてはミステリーで、「私立探偵の恋人 ダーシャ・ワシリエワ」シリーズをはじめとする著作は約200冊にもおよぶ。どの書店にもコーナーが設けられ、街角の小さな売店でも必ず4、5冊が置かれている。現代ロシアを代表する国民的作家と言ってもいいだろう。

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黄色と黒を基調としたド派手な装丁。遠目にもすぐドンツォワの本とわかる

「無人島にドンツォワの本しか持っていけないとしても絶対に読まない」

 しかしながら、彼女に対する世間一般の評価は異常なまでに低い。ロシア人にドンツォワの名前を言うと、10人中ほぼ10人が眉をひそめ怪訝な顔をする。しかめ面をして顔をそむける者、オエーッと吐くような仕草をする者もいる。

 実際の評判は「ドンツォワを読んでいるような人とは付き合い方を考える。できれば友達になりたくない」「好きな人の部屋に行き、本棚にドンツォワが並んでいたら一瞬で恋が冷める」「無人島にドンツォワの本しか持っていけないとしても絶対に読まない」「二日酔いの頭でも読めるように書かれた三文小説。読む価値はゼロ」などなど、とにかく散々の言われようだ。

 一度、ロシアの作家で誰を知っているか訊ねられ、いたずら心でドンツォワの名を挙げたことがある。途端に相手は目を見開き「なんてこと!」と悲鳴を上げ、顔色がみるみる変わっていった。その後、冗談だといくら釈明しても「いいですか、あなたの名誉に関わることなんですよ!」とこっぴどく叱られ、しばらく口をきいてもらえなくなった。

 それほどまで取り扱いに注意を要する劇薬のような作家なのだ。先に「ロシアを代表する国民的作家」と書いたが、そんなことを言おうものなら、苦々しさを通り越し、侮辱されたと受け取られケンカにもなりかねない。もしも彼女がノーベル文学賞を受賞すれば、ロシアは過去のどんな経済制裁よりも甚大な精神的ダメージを受けることになるだろう。

最新刊『不死鳥の星占い』。次々に一家が殺害されていく連続殺人事件を主人公が華麗に解決。秘密は高級チョコレートに……。

書店員に聞くと「私は読みません!」

 モスクワ市内の書店に入ると、同じくミステリーで人気のボリス・アクーニンの棚には立ち読み客がちらほらいるのに対し、ドンツォワの棚は閑散としたもので、脚立が目隠しのように放置されている。緊張しながらドンツォワの本を手に取り、会計の列に並んでいると両隣の客に冷たい視線を投げかけられる。こんな経験は病気の妻に頼まれて生理用品を買いに行ったとき以来である。会計中、店員に「これ、面白いですか」と話しかけてみると、「私は読みません!」とぴしゃりと言われてしまった。ドンツォワの読者はインターネットでこっそり購入しているのだろうか……。地下鉄の車内で、公園のベンチで、周囲にばれないように隠れて読んでいると、発禁本や官能小説でも読んでいるかのような背徳的な気分になる。

 仮にもロシアで最も売れているベストセラー作家であり、内容も卑猥でもセンセーショナルでも一切ない、何の変哲もないミステリーである。いったい彼女はなぜここまで忌み嫌われるのか。

1952年生まれの64歳。2012年には作家を志すきっかけとなった乳がんの発症から克服までの闘病記も刊行

下流ではないことを示すための踏み絵のような存在

 あなたはドンツォワを読みますか──? ロシア人にいやな顔をされながら聞き取りを続ける中で見えてきたのは、ドンツォワの人間性や作品性云々ではなく、ロシアの社会階層の問題だ。

 たしかに作品の文学的価値はないに等しい。平易なロシア語の羅列で、ストーリーにもひねりがなく、頭を使わなくても読める。そのため教養レベルが低く、これといった楽しみを持たない退屈な毎日を送る読者像が出来上がってしまっている。

 ドンツォワの読者だと名乗ることは、すなわち自分は教養のない、低い階層の人間だと表明しているのと同義である。反対に、ドンツォワを軽蔑し貶すことで「私はドンツォワを読むような階層の人間ではない」「きちんとした高等教育を受け、それなりの生活水準にある」とアピールしたい心理が中流階級の根底にある。「あなたはドンツォワを読みますか?」という問いかけに相手が一瞬見せるためらいは、こちらの質問の意図を探っている時間であり、自分を相手にどう見せるべきか考えている時間でもある。

http://www.dontsova.ru/cabinet/ より

 ドンツォワはロシア社会において下流ではないことを示すための踏み絵のような存在と言えるかもしれない。同様の“踏み絵現象”は、ロシアの国民車ラーダ、食品のマヨネーズ(消費量世界第1位の国にもかかわらず)でも起きている。歴然とした階級格差があり、そのことに敏感にならざるを得ないロシアではとくに中流と下流の間に深く暗い溝が横たわっている。

 ロシア語の原音により近い発音は「ダリア・ダンツォーワ」。ロシア人と話す機会があったら、名前を出して一度試してみては。ただし、その後の人間関係がどうなっても補償しかねるので、くれぐれもご注意を。

ロシアの“国民的作家”ドンツォワが嫌われる理由

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