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映画『昼顔』の上戸彩、そのエロティシズムの本質とは?

女優が脱がなくなった理由と、肌の露出よりエロい映画的フェティシズムについて

2017/05/06
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女優のヌードで騒ぐのは日本だけ?

 それを踏まえると、ここでは個別の名前を出すのは控えるが、近年、映画の中で脱いだことのある若手女優たちは、いろいろスキャンダルがあってCM契約が途切れている時期であったり、CMにで始める前の売り出し時期であったりしたことに気づかされるはずだ。先ほど、映画での「脱ぐ/脱がない」問題について書くと「性の商品化」の文脈で糾弾されがちと書いたが、皮肉なことに、現在の女性タレントは既に自身が女性CMタレントとして「商品化」されている限りにおいて、「性の商品化」からは切り離されるというわけ。

 もっとも、これはあくまでも現在の日本映画界における「女優の露出度」をめぐる事実の一つの側面にすぎない。女優の立場からすると、作品的な必然性があって肌を露出したとしても、逆に作品の内容ではなくそこばかりがメディアで取り上げられて一人歩きしてしまう懸念がある。最近も、ドラマ『山田孝之のカンヌ映画祭』の中で長澤まさみがそういった趣旨の発言をはっきりとしていた(脚本に書いてある言葉だったのだろうけど)。これはまったくその通りで、「女優のヌード」を宣伝に利用してきた日本の映画会社と、それに前のめりでのっかってきた日本の週刊誌やスポーツ新聞の結託による長年の「負の遺産」と言っていいだろう。海外のように、どんなに若い女優でも、どんなに人気絶頂期の女優でも、作品的な必然性があれば脱ぐし、メディアもそれについて取り立てて騒いだりしない、といった成熟した文化受容の状況と日本はほど遠いし、その距離が埋まっていく気配も今のところまったくない。

作品を貫く極めてハイレベルなエロティシズム

 というわけで、すっかり本題からずれてしまったが、本稿において自分が一番言いたいことは、それでも映画『昼顔』の上戸彩はとってもエロいということだ。この作品の全編を貫いているのは、「もしかしたらギリギリの露出までいけるかもしれない」という監督(と製作側)と女優(と事務所)の現場でのせめぎ合い、といった旧態依然とした日本映画界の風土とはまったく無縁の、極めてハイレベルな映画的エロティシズムだ。

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 3年前に放送された『昼顔』というドラマは、自分にとって奥手なパート主婦と奥手な高校生物教師との不器用な不倫の行く末をハラハラしながら見届ける作品(で、ストーリーは大体合ってますよね?)というよりも、川沿いにある郊外の街並の中を華奢な身体(と大きな胸)の上戸彩が自転車で駆け抜ける姿をじっくりとらえた繰り返しのシーンに象徴されるように、審美的な関心によって目が離せなくなってしまったドラマだった。え?「そんなのお前だけだ」って? いや、女性の視聴者は違うかもしれないが、少なくともドラマでもメインの演出を務めていた西谷弘の視線は、疑いようがなくそうした自転車、靴、手といったフェティシズム的な「細部の描写」へと向けられていた。現在、フジテレビのエース演出家として活躍している西谷弘だが、そんな彼の演出における優れたセンスは、これまで『ガリレオ』シリーズの映画化作品『容疑者Xの献身』『真夏の方程式』などにおいて遺憾なく発揮されてきた。

 今回の映画『昼顔』では、そんな西谷演出が上戸彩という抜群の「フェティシズムの宝庫」的素材を得て(思えば、これまで彼が監督を務めた映画は織田裕二、福山雅治、草なぎ剛と男性俳優が主人公を演じる作品ばかりだった)、過去最高にキレキレなのだ。女優が脱ぐか脱がないかなんて、本来、映画の官能性とはまったく関係ない。最初から「脱ぐわけがない」上戸彩を主演に迎えた映画『昼顔』の見事な出来栄えは、事務所やスポンサーや製作委員会といった各所からの様々な制約と忖度でがんじがらめとなっている現場からの、そんな高らかな「映画の勝利宣言」である。

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