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連載NHK大河ドラマ「真田丸」の舞台 真田氏ゆかりの地をめぐる

第6回【上田城その2】上田市民から数百年にも渡って愛され続けてきた名城

『真田三代』 (火坂雅志 著)

2016/02/06

genre : エンタメ, 読書

note

西櫓

仙石氏が再建した姿のまま、現在まで保存されている唯一の櫓・西櫓。期間限定でその内部を観覧できる(公開期間は2016年12月まで)

 先にも述べたようにそもそも上田城には櫓が7つあったが、明治維新を迎え政府の方針によって櫓をはじめとした城内の建物や土地が民間に払い下げられることになった。当初、櫓は12円50銭で競売にかけられたがなかなか買い手がつかず、徐々に価格が下がり、最終的には6円にまで下がった。ちなみに当時、新橋-横浜間を走る汽車の一等客室の料金が1円12銭5厘。そこまで安くなってようやくすべて買い手がつき、解体・移築が開始された。

 しかし城内のほとんどの櫓がなくなっていくことを最後の上田藩主・松平忠礼(ただなり)は非常に嘆き悲しんだ。それを知った民衆が、櫓を購入した丸山平八郎直義氏に返還を求めたところこれを快諾。同時に購入していた本丸周辺の土地と合わせて、明治22年(1889)に忠礼に献納し、昭和4年(1929)、上田市が松平氏から譲り受けた。それが仙石氏時代から現在に至るまで解体・移築されることなく残っている唯一の櫓・西櫓である。その後、西櫓は松平家の宝物などを展示する「徴古館」(上田市立博物館)となり一般公開されていたが、昭和40年(1965)、二の丸東虎口を入ってすぐ右手に上田市立博物館新館(現・本館)が開館したことで、西櫓は閉鎖。しかしNHKドラマ「真田丸」の放送に合わせて2016年に再び公開されている(北櫓・南櫓、城内の上田市立博物館の入場チケットで入場可能)。

 解体、売却された6つの櫓の内の2棟は上田市常磐城(新地)にあった遊郭が買い取り、「金秋楼」と「万豊楼」という遊女屋として使用された。しかし遊郭の廃業にともない、昭和16年(1941)、2棟の櫓が東京の目黒雅叙園へ転売されそうになったが、市長・市議・区長・有識者などを中心とする市民たちが立ち上がり「上田城址保存会」を結成。銀行から1800円を借金してまず2棟の櫓を買い戻し、後に全国的に募金運動を展開、全額返済した。最終的に全国から集まった寄付金は73万9300円だったという。その2棟の櫓は昭和24年(1949)、現在の本丸の入り口、東虎口櫓門の北櫓と南櫓がある場所に移築、忠実に復元された。丸山氏や上田市民たちの上田城、そして真田氏・仙石氏、松平氏に対する深い親愛の情がなかったら、我々は3つの櫓を見ることも中に入って真田の歴史を学ぶこともできないのである。

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鬼門除け

鬼門除けの跡

 上田城の本丸と二の丸の土塁と堀は、北東の隅の内側に切り欠きが設けられている。古来、北東(丑寅)の方角は、災いや化物(鬼)が侵入してくる「鬼門」と呼ばれていた。この切り欠きも真田昌幸が鬼門を封じるために設けたと考えられている。同じく城下の北東にある海禅寺と紺屋町八幡宮も、上田城と城下を災厄から守るために移築された。ちなみにこの方角の延長線上には砥石城、真田本城、長谷寺がある。これは単なる偶然とは思えない。もしかしたら昌幸はこれらの配置をも考えて上田城を築城したのかもしれないと思うと、昌幸の深謀遠慮ぶりに戦慄を禁じ得ない。想像の域を出ないが、こうしてあれこれ思いを巡らせてみるのも歴史探訪の醍醐味の一つだろう。