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楠木 建
2017/05/23

楠木建の偏愛「それだけ定食」――スパゲティ「バジリコだけ定食」を愛する理由

楠木建の「好き」と「嫌い」ーー好き:それだけ定食 嫌い:美味しいものを少しずつ

「美味しいものを少しずつ」の不思議

 あくまでも個人的な好き嫌いの話として聞いていただきたい。

 ド中年ともなると「いろいろな美味しいものを少しずつ食べるのがイイですな……」とか言う人が多くなる。ま、わかるような気がしないでもないのだが、本当のところはよくわからない。

 温泉宿に泊まってちょっとずついろいろな料理が出てくるのをゆっくりと食べる。上等上質な料理店でフルコースを食べる。こういうのはたまに経験する分には確かによろしいが、あくまでも非日常。そういう経験の総体というか文脈が楽しかったり嬉しかったりするわけで、僕の場合、「美味しいものを少しずつ」は食そのものに対する欲求にはなり得ない。

 美味しいものであればそれだけを大量に食べたい。ほとんど小学生のようではあるが、これが僕の日常生活の食に対する基本姿勢である。

 食通の人ほど「美味しいものを少しずつ」路線に走る。これが僕には不思議である。本当に美味しくてスキな食べ物であれば、それだけでお腹一杯になるまで、スキなだけ、心ゆくまで、気が済むまで食べたい、と思うのがむしろ普通というか人情なのではないか。

 例外は吉田健一。この人の本を読んでいると、美味しいパンとバターがあれば、他のものには目もくれず、それだけをお腹一杯になるまで食べる、というようなことが書いてあって嬉しくなる。これだけでイイ人であるような気がする。

在りし日の吉田健一氏 ©樋口進/文藝春秋

「それだけ定食」の悦び

 もとより僕は吉田健一のような食通ではない。美味しいものは確かに美味しいと思うが、微細な違いはよく分からない。僕の持ち合わせている美味しさの評価基準はごく大雑把なもので、「松竹梅」で十分に事足りる。すなわち「美味しい」「普通」「不味い」の3段階しかない。

 ラーメンやお鮨といった専門化の程度が高いカテゴリーでは、ごく微細な味の違いを追い求めていろいろな名店を彷徨するマニアがいる。「どこどこと比べるとこの点で若干レベルが落ちる」というような評論を目にするが、僕にとってはそういうお店で食べるものはどれも単純に「松」であり、「とても美味しかった、以上」としか言いようがない。

 日常の食生活で僕が重視しているのは、そのものの美味しさそれ自体よりも、スキなものそれだけをスキなだけがーっと食べてお腹一杯!というスタイルにある。ポイントは3つ。「それだけ」という単品性、「スキなだけ」という量的満腹感、「がーっと」というスピードである。

 理想的な食事の時間は5分以内。せっかちということもあるが、それ以上に無心にわしわしと食べ続けるという動物的行為が僕の本能を直撃するのだと思う。

 普段の食事をつくるのは家人に任せているが、この歳になると年老いた親の介護やら何やら忙しく、「夜は勝手に食べておいて……」ということも多い。前回話したことだが、僕は仕事場を出て帰宅するのがやたらに早いので、外で食べるということになると、夕方いったん帰宅してからもう一度外出しなければならない。それも面倒なので、家で一人で作って食べるということになる。

 料理それ自体が好きなわけではない。むしろ嫌いである。僕にとって、自分で食事を作るメリットは、食べたいものだけ食べたい量をスキなだけ作れるということ(だけ)にある。こうして食べる一人の食事メニューを私的専門用語で「それだけ定食」と呼ぶ。