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黒柳 徹子
2017/07/01

黒柳徹子が語る、昭和のテレビのとっておき秘話 #1

若き日の現場から「終活」まで、すべてを語る

source : 文藝春秋 2016年1月号

genre : エンタメ, テレビ・ラジオ, 芸能

黒柳徹子さんが語る昭和のテレビの話。若き日の現場から共演者とのエピソード、紅白司会の話など、とっておきのお話を伺った。
(出典:文藝春秋2016年1月号)

女優になったきっかけは“人形劇”

 二〇一五年は戦後七十年という節目の年でした。私のように長年、放送の仕事に携わってきた者にとって、実はもう一つの節目でもありました。NHKが日本でラジオ放送を始めて九十年を迎えたのです。その記念すべき年に、私は文化功労者に選んでいただきました。記者会見では「テレビを文化だと認めてもらえたと思うと本当にうれしい」と話しましたが、あれは準備していたコメントではなく、本当にスッと口から出た実感でした。

 私は“テレビ女優第一号”と言われるように、テレビ放送が始まった一九五三年にNHKに入りました。ちょうど二十歳の頃です。

 それから六十二年間、ずっとテレビにかかわってきましたが、この仕事に携わるようになるのは、特別な目標があったわけではなく、実は偶然の積み重ねでした。

 NHKに入るまでは、オペラ歌手になりたいと思って音楽学校に通っていました。それに、女はお茶やお華を習って、お嫁にいくのが当たり前の時代。私もいずれ結婚して、お母さんになるのだろうと思っていました。

 そんな頃、たまたま音楽学校の帰りに、銀座の交詢社で子ども向けの人形劇を見かけ、あまりに素晴らしくて感動しました。子どもたちもよろこんでいて、「こういう人形劇ができて、絵本を上手に読んであげられるお母さんになろう」と思ったんです。

 それから家に帰って母に、どこで勉強すればいいかと相談すると、「新聞に出ているんじゃない?」と言われ、NHKがテレビ放送を始めるにあたって俳優を募集するという広告を見つけました。「ここなら人形劇や絵本の読み方を教えてくれるかもしれない」と思って応募しました。NHKはこの一日しか募集を出していないそうです。このとき六千人の受験者がいて残ったのは十三人。まわりには綺麗な人ばかりで、筆記試験もできなくて、合格したときは「嘘でしょ」と思いました。

 私の父は、NHK交響楽団のヴァイオリニストでした。俳優の試験を受けると言ったら、「みっともないからやめろ」と言われるのはわかっていました。だから黙って受験したのですが、最終面接で面接官に気付かれてしまった。その場で「お父さんに相談した?」と聞かれ、「父に言うと『そんな、みっともないことしちゃいけない』と言われるから黙って来ました。父はみっともないと思っても私は入りたいです」と答えたら爆笑されました。

 でも当時テレビは全国で八百六十六台しかなく、一台を五人で観ても、全国で五千人ほどしか視聴者がいなかった。テレビ女優といっても、「みっともない」と思われるような時代だったんです。

テレビで生きる決心をするきっかけになった、ある人の言葉

 その後、私がテレビの世界でやっていこうと決心できたのは、ある方のお話がきっかけでした。

 NHKに入って間もない頃、テレビ放送の開始にあたって、米NBCから技術指導に来ていたテッド・アレグレッティさんという方の講演を聞いたのです。

「テレビジョンは、山奥の結婚式や知られざる戦争まで、多くの人に伝えることができる。だから世の中がよくなるか悪くなるかはテレビにかかっている。永久的な平和も、テレビをうまく使えば、きっと実現するものと自分は信じている」

 戦争の悲惨さが記憶に新しい頃ですから、アレグレッティさんがいった「永久的な平和」という言葉は胸に残りました。人形劇や絵本の読み方を習いに行った私も、このときにテレビの仕事は意義あるものだと思うようになったのです。

 NHKに入った最初の一年間は、ほとんど仕事がもらえませんでした。理由は、個性が強すぎたから。当時はラジオもテレビも、今から思うと、ずいぶんゆっくり話していました。私が早口で話すものですから、「そんなに早くしゃべるな」「個性を引っ込めろ」と毎日叱られていました。そう言われても、個性の引っ込め方がわからないので、同期生の中でいちばん個性がなさそうな人に台本を読んでもらって、その通りに口真似していたんです。