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中川 充四郎
2017/06/13

【西武】1985年、甲子園で圧倒されて広岡ライオンズは終わりを告げた

交流戦 指名対決 テーマ「1985年の日本シリーズ」 文春野球コラム ペナントレース2017

広岡監督が考案した甲子園対策

 日本シリーズ開幕を数日後に控えた西武ライオンズ球場での練習時のこと。スコアボードの両脇にあるスピーカーから大音量の音楽が流れてきました。音響操作の係員が誤ったのかと思い確認したところ、広岡達朗監督からの要望とのことでした。

 改めて、広岡監督に聞いてみますと「甲子園球場の大声援は(選手たちが)経験したことないだろう? 声の連係なんか消されてしまうから、少しでも慣れるためなんだ」と説明してくれました。私自身もテレビで甲子園球場の試合を見る程度で、実際の迫力はピンと来ませんでした。現役時代とヤクルト監督時代に何度も経験している指揮官だからこその発想だったのです。

 当時、選手は練習日、試合日とも自宅通いではなく、球場からクルマで5分ほどの西武園競輪場に隣接する「共承閣」での合宿生活でした。ここは、競輪選手が開催期間中に外部との接触を断ち、不正が行われないための1室4~5人ほど収容できる宿泊施設。なので、ドアに取り付けられた小さな「覗き窓」は外側からのみ開閉されるもの。「なんか、いつも監視されているようで落ち着かないよ」が選手たちの共通の弁でした。ただし、食事は豪華で「楽しみは食べることだけ」も共通の言葉。

屋根のない西武ライオンズ球場 ©中川充四郎

 1985年10月26日、地元で迎えた第1戦の開幕投手はこのシーズン14勝の松沼博久で、17勝の東尾修はペナントレース終盤から抑えに回り、シリーズでもその役割を任されました。2戦目は髙橋直樹でしたが、この両下手投げ投手で連敗のスタート。

 そして、第3戦からは「問題の」甲子園球場に舞台を移しました。客席を見てあ然とさせられた記憶は今でも鮮明です。99%が黄色一色。ブルーの一団は、ネット裏から親指と人差し指で幅を計ってみたら「2センチ」ほど。このブルーの帯が左翼席に1本だけ。現在ならば、ひと塊りになるのでしょうが、この時は「線」だったのです。それはそれは、珍しい光景でした。

 試合が始まり、阪神の選手の打球が平凡な飛球でも「ワ~ッ!」の大歓声。一方、西武の選手が本塁打を放つと「シ~ン」。文化放送の放送席だけが盛り上がるも、客席の中にあるため鋭い視線があちこちから向けられる始末。だんだんトーンが下がっていくのもお分かりいただけるでしょう。そんな厳しい環境の中で第3、4戦と連勝し2勝2敗の五分に。しかし、第5戦は選手たちも「歓声疲労」の積み重ねが影響してか試合を落とし、王手をかけられての地元での戦いとなりました。

 そして、第6戦は11月2日。右翼から本塁方向への冷たい北風が強く吹いていました。試合前から「今日は、左打者はかなり不利だね」の声が。ところが、1回表に長崎啓二が、その右翼席に逆風をついて満塁弾を叩き込みました。これで西武は意気消沈し反撃態勢も整わず、逃げ切りを許し吉田義男監督が宙に舞いました。阪神は21年ぶりの日本シリーズ進出で、シーズン中の勢いをそのまま発揮していた強さが出た結果でした。

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