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連載阿川佐和子のこの人に会いたい

斎藤工「ハチャメチャな悪ガキでした」――阿川佐和子のこの人に会いたい(後編)

3年前、ドラマ版『昼顔』で大ブレイクを果たした斎藤さんが映画版の同作に帰ってきた。自分には武器がないと悩んだ時期の葛藤から、映画への愛の深さゆえに自らが監督することになったいきさつもうかがいました。

前編より続く)

◆ ◆ ◆

転校して最初の授業が卒業遠足でしたから(笑)。

阿川 1学年あたり何人くらいいるんですか?

斎藤 いちばん多いときで7人ですね。授業が僕1人というときもありました。同級生が外国に留学してしまって、僕がやめたら学校自体を畳むという状況もありました。

阿川 1人のときがあったの!? ランドセルを背負って通うんですか?

斎藤 いえいえ。カバンも洋服も自分たちで布からつくるんです。編み物という授業もありました。食事も自分たちでつくる。面白いのは、田植えが授業としてあって。シュタイナースクールは世界中にあるんですけど、その国の伝統を尊重し国によってカリキュラムが違う。日本はやっぱりお米の文化なので、お米を植えて収穫して、バザーで人に売るところまでが授業でした。

阿川 教科書は?

斎藤 なかったです。教科書兼ノートを自分たちで作っていくんです。すごく面白かったです。あと低学年から詩や俳句を作ったり。とにかく自分の中でイメージしたものを形にしていくということが、感性教育につながるという考え方。で、毎月の発表会があって、そこで僕らは『外郎売(ういろううり)』の台詞などの、古典をやる。

阿川 面白~い! 試験はあるんですか?

斎藤 なかったんです。成績は先生が総評を親に話していた様ですけど。

阿川 工君は、どういう評価でどういう子でしたか?

斎藤 最悪でしたね。ハチャメチャで、ボイコットもするし、悪ガキだったんです。

阿川 さっき、プライベートは地味だって言ってたのに(笑)。

斎藤 少人数だったので強く出られたんだと思います(笑)。女性の担任教師は英語の授業になると衣装を変えて、ミス・コンドウという設定で日本語を一切話さなくなる。その先生の着替えを捜し出して正体を暴いて、困らせてました。

阿川 怒られなかったんですか?

斎藤 ものすごく怒られましたし、親の拳骨ももらいました。それでも懲りなかったです。

阿川 それは学校がいやだったから?

斎藤 いやではなかったです。すごく楽しかったんですけど、決められたカリキュラムや、宗教的な厳格さに対して、結構敏感に反発していたのかなあと思います。

阿川 自由な感性を磨くためにはこのやり方、って押し付けられることにカチンと来てたっていうことかしら。

斎藤 はい。たまにおじいちゃんの家で『水戸黄門』だけは見せてもらえたんです。それがもう楽しくて、テレビが魔法の箱でした。ポテトチップスを初めて食べたのは小学4年生のときで、なんて美味しいんだ、体に悪いとされているけど、早死にしてもこれを食べたいと思いました。快楽は素晴らしいものだと(笑)。

阿川 リンゴの味を知ったアダムか!(笑) 中学は地元の学校だったんですか?

斎藤 はい。正確にいうと、小学校6年の3学期に転校しました。当時の僕はサッカーが好きで、地元の公立の強豪校に入りたかったんですが、シュタイナーは当時、学校法人として認められてなかったので、その中学に入るために無理やり転校したんです。実はシュタイナーはサッカーも禁じているんです。足でものを蹴るという概念をよしとしてないんですよ(笑)。