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白熱座談会 世界史の中の幕末明治 黒船が来た! 日米中衝突の宿命

半藤一利(作家)×船橋洋一(ジャーナリスト)×出口治明(ライフネット生命保険代表取締役会長兼CEO)×渡辺惣樹(日米近現代史研究家)

2015/05/26
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ペリーの交渉術

半藤 それにしても、なぜ日本人はあれほど黒船にショックを受けたのでしょうか。というのは、実は江戸幕府も西洋の事情をいろいろと調べて、それなりの知識を持っていたんですね。ペリーが日本に向かっていることも、オランダからの情報ですでに知っていた。

 しかし、どうしてもよく分からなかったもの、それはずばり軍事力、鉄で出来た蒸気船という巨大兵器ではなかったか。文献には、蒸気機関の仕組みや西洋の船舶についての記述はあっても、現物の威圧感、脅威はなかなか実感できない。

 大砲一つとっても、お台場に据えられた大砲九十九門のうち、半数以上は一貫目砲でした。それに対し、サスケハナ号の主砲六門は六インチ砲、日本流にいえば十一貫目砲になりますから、とてもじゃないけどかなわないと思ったでしょうね。

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船橋 黒船によって、はじめて剥き出しの近代的軍事力にさらされた。ペリー来航からわずかに遅れて、ロシアのプチャーチンがおなじく軍艦四隻を率いて長崎にやって来ますね。しかし旗艦パルラダ号は老朽化した木造船でしたから、ペリーのような衝撃はなかったのかもしれません。

半藤 『ペリー提督日本遠征記』によると「戦闘の用意をなし、大砲を定位置にそなえ」て、日本領海に入っていますね。そこで渡辺さんにお聞きしたいのですが、パーマーの計画書には戦争の計画まで記されているのですか。

渡辺 パーマーは、特使に江戸湾封鎖の権限を与えるよう提言しています。しかし、実際に日本と戦火を交える意図はほとんどなかった。ペリーは最初の来航時に「開戦も辞さず」と宣言し、品川沖でも大砲を撃っていますが、あくまでも交渉のテクニックだったと思います。

半藤 ああ、やっぱりそうでしょうね。

船橋 一方、ロシアのプチャーチンは、交渉するなら長崎に行ってくれと言われて素直に従ったために、アメリカに先を越されてしまう。

渡辺 ペリーの交渉術は、現代のビジネスマンが見ても、なかなか面白いのではないでしょうか。たとえば、浦賀に現れる前、先に琉球と小笠原に上陸していますが、あれは本交渉に失敗したときのための予防線だったと思います。

半藤 日本の開国に失敗しても、琉球と小笠原を押さえておけば、最低限、太平洋シーレーンの確保はできる。本社への言い訳は立つ、ということですな(笑)。

渡辺 そのとおりです。

半藤 そういえばペリーは、交渉の最中に小笠原諸島はアメリカの領土だと言い出しますね。それに反論するために、幕府の蕃書調所から、林子平が書いた『三国通覧図説』のフランス語版を出してくるんです。それがあるのを幕府の役人の中に知っている者がいた。林大学頭という傑物です。そこには小笠原貞頼という人が上陸して、わが領土であると旗を掲げたと書かれてある。それをペリーに突きつけたら、ペリーが「ああ、それを持っていたのか」と、主張をあっさり引っ込めたというのです(笑)。

船橋 バレたかと(笑)。逆に言えばペリーもそれだけ準備をしていた、ということですね。シーボルトの書いた『日本』や、綱吉にも謁見した医師ケンペルの『日本誌』などを含め全部で三百冊ほどの本を買い入れ、熱心に読み込んでいたそうです。

 アメリカは、太平洋戦争中にも、後に『菊と刀』を著すルース・ベネディクトら文化人類学者に日本研究をさせていますが、相手国の幅広いリサーチは、外交の基本ですね。

半藤 とにかく幕府の中に人物がいたので、小笠原を取られなくてすんだのです。

渡辺 翌年再来日して、いざ本格的な交渉を始めると、ペリーはかなり早い段階で「日本には開国の意思がある」という確信を得たと思います。

 というのも、契約が成立したときのために用意したミニチュアの蒸気機関車などのお土産を、ペリーは五日目にはもう渡している(笑)。

半藤 なるほど。そういえばペリーは一回目に浦賀に来たとき、国書とともに渡すはずのお土産が用意できなかったんですね。その外交的失敗がバレないうちに慌てて帰っていったという(笑)。

出口 それで二度目は早めに出したのかもしれませんね(笑)。


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