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日本型組織の弱点 内幕ルポ 朝日新聞メルトダウンの病根を暴く

チームTKJ

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特別報道部という鬼っ子

 福島原発の事故当時、吉田昌郎所長(故人)の命令に反し、原発の所員たちが避難していた――五月二十日、朝日は政府が極秘保管する「吉田調書」の内容を一面トップで報じた。だが、この“スクープ”が、極めて恣意的な解釈で作られた記事だったとして取り消されたことは、周知の通りである。

 なぜこのような不祥事が起きたのか。

 まず注目すべきは、この記事が社会部ではなく、特別報道部(特報部)というセクションから出たことだ。特報部設立の経緯はこうだ。二〇〇〇年代前半、官僚主義の蔓延した朝日はなかなかスクープに恵まれなかった。とくに朝日のお家芸だった「調査報道」によるスクープは激減した。一方で、〇五年には田中康夫・長野県知事(当時)への取材メモ捏造事件、NHK番組改編報道など不祥事が続いてしまった。

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 そこで〇六年、「調査報道を専門におこなうチーム」として特報部が設立された。特報部設立の改革チームの座長だったのは、木村伊量・編集補佐(当時)である。木村社長肝煎りで設立された組織が、結果として木村社長を辞任に追い込んだのは皮肉である。

 当初、特報部に集まったのは朝日官僚とはかけ離れたタイプが多かった。同業他社からの中途採用者や、従来の所属部ではみ出しがちだった変わり者である。とくに初期は“猟犬的”な記者が目立つ部署だった。

 しかし、特報部の設立は新たな火種を呼び込んだ。本来、原発事故などのニュースは社会部の縄張りだ。「おいしいところ」だけを狙う特報部は、社会部から見れば“天敵”であった。恵まれたポジションにも一見思えるが、それは逆に激しい嫉妬と背中合わせだ。しかも特報部は、政治面や経済面、社会面といった自前のページを持たないため、他の部のスペースを空けてもらって記事を出さなければならない。

 幸いにして特報部は、一二年の原発事故連載『プロメテウスの罠』、一三年の『手抜き除染』報道と、立て続けに新聞協会賞を受賞している。それによって社内での特報部の存在感は高まったが、同時にまた、社内からの嫉妬は以前にも増して強まってしまった。政経社からの反発を撥ね返すためにも、特報部は大ネタを是が非でも欲していた。

「吉田調書」の報道は、そのような状況下で、三年連続の協会賞受賞を狙って放たれたものだった。

 取材班の顔ぶれは錚々たるものだった。

 原稿の責任者たるSデスクは、花形の政治部出身者だった。通常、デスクは四十代後半から五十代前半の者が務めるが、Sデスクは四十代前半ながら最年少で、しかも筆頭デスクに就任した出世頭だ。だがSデスクは官僚タイプではなく、“イケイケドンドン”のやり手として知られていた。野党クラブ時代には、菅直人元首相へ深く食い込んだ。社内のデスク会でのプレゼンテーション能力もピカイチとされ、紙面を確保する売り込みのうまさから、部下たちの信頼も厚かった。一三年の新聞協会賞受賞記事『手抜き除染』の派手な紙面展開も、Sデスクの抜群のプレゼン能力があればこそのものだったと言われている。

社長も絶賛した“スクープ”

 一方、そうした突破力に比べて、記事の内容にかかわる「デスクさばき」に関しては、危うさを指摘する声も聞かれた。「Sは原稿の組み立てはうまいが、表現がいちいち大げさ。どちらかというと雑誌向き」などという評価を口にする他部デスクもいた。

 記事を執筆した二人の記者も、変わり種だった。

 吉田調書を手に入れたK記者は、もともとカメラマンとして採用された。社内で公募された『プロメテウスの罠』取材陣に手を挙げて、「官邸の5日間」を執筆。事故直後の菅政権と東電の対立を浮き彫りにした。連載には「民主党政権の言い分に偏り過ぎ」という批判が内外から上がったが、反響は大きく、K記者もこれを機に菅元首相との良好な関係を築くことができた。

 吉田調書記事で解説部分を担当したM記者は、経済部出身。名古屋でトヨタ担当、本社では東電担当と、花形部署を歴任した。『プロメテウス』でのデスクワークも経験し、取材班代表として新聞協会賞を受賞した。寡黙で他の社員と群れないことから「変人」と見る向きも多いが、その実績は頭抜けている。

 実はK記者が「吉田調書」を入手したのは記事掲載より約十カ月も前、『プロメテウス』の連載参加を経て経済部に在籍中の一三年夏のことだったと言われる。両人を知る同僚は、「KはMと協力して、東電が公開したテレビ会議記録を単行本にする作業にかかりきりだった」という。

 そして一四年になり、K記者は密かに確保した吉田調書を“手土産”に、特報部に移った。以後、M記者と二人三脚で、効果的な発表を狙って準備を進めていた。五月に記事を出したのは「夏に決まる新聞協会賞選考レースに向けもっとも強く記事をアピールできる時期」というタイミングを計算したものだったという。

 記事掲載の数日前、東京本社六階のフロアでは、取材チームのメンバーがゲラ刷りを片手に入念なチェックをおこなっていた。

「何度も見直してくださいね」

 Sデスクの号令の下、取材班はもう一度ゲラに目を落とした。

 そして五月二十日、「所長命令に違反 原発撤退」という第一報を一面トップに掲載。翌日には「ドライベント、福島第一3号機で準備 震災3日後、大量被曝の恐れ 吉田調書で判明」、三日後には「吉田氏、非常冷却で誤対応 震災当日、福島第一」と、立て続けに記事を連発した。

 華々しい紙面展開に、社内では直後から称賛の声が溢れた。

 木村社長は「一級のスクープ」と社員にあてたコラムで絶賛した。第一報の直後には、編集部門の最高責任者・編集担当役員の名を冠した「編担賞」を受賞。紙面と同時展開したデジタルでの試みにも「デジタル担当(役員)賞」が贈られた。社内における“スクープ”としての高評価は、こうして紙面化した直後に事実上、確定したのだった。

 だが、他の新聞やテレビは、朝日の「後追い」を一切しなかった。調書が手に入らない以上、後追いは困難ではあったのだが、政府やライバル各社が不気味なほど沈黙する中で、朝日の“独走”は続いてゆく。

 特報部の面々は、他社の「後追い」を望んでいた。K記者は社内報で「この吉田調書について他紙が全く報じない状況について触れておきたい。最大の理由は(他紙が)調書を入手できないからだが、『朝日新聞によると』という形で報じる習慣が日本のマスメディアにないことが大きい。欧米では朝日の記事を引用して『吉田調書』は報じられている」と、他社を批判している。M記者は紙面で、「政府は全資料を公開し、『福島の教訓』を生かすべきだ」とも主張している。

 政府に調書公開を求め、他社へは後追いを求める。言い換えればそれは、自分たちの記事に「恣意的な資料の切り取り方をした」という後ろ暗さが皆無だったことを意味している。もし調書が公開されれば、朝日の“作為”は白日の下にさらされる。ということは、少なくとも当人らの念頭には、不適切な決めつけや印象操作をしたつもりは、毛頭なかったのだろう。エッジを利かせる、つまり多少大げさにメリハリをつけるのは大丈夫。その程度の誇張は、許容範囲だと彼らは信じ込んでいたのである。

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