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特別座談会 世界史の中の昭和史 世界大戦でルールは激変した

半藤一利(作家)×船橋洋一(ジャーナリスト)×出口治明(ライフネット生命保険代表取締役会長兼CEO)×水野和夫(日本大学国際関係学部教授)

2015/02/26
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石炭から石油へ

半藤 第一次大戦でもうひとつ大きく変わったのはエネルギーですね。それまでの石炭から石油が主役に躍り出た。

水野和夫(みずのかずお)/1953年生まれ。早稲田大学大学院経済学研究科修士課程修了。三菱UFJモルガン・スタンレー証券チーフエコノミストなどを経て現職。著書に『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)など。

水野 さきほど近代兵器として、飛行機、潜水艦、タンクなどが挙がりましたが、これらを動かすには石炭よりも石油のほうが効率がいい。特に飛行機は、石炭では重くて飛べません。つまり石油を手に入れないと戦争ができない時代になったのです。第二次大戦でソ連が戦えたのも、当時、世界の半分の石油を産出したバクー油田を押さえていたからです。

半藤 しかし、日本軍は石油への切り替えが遅いんですね。昭和十年代になってもまだ大艦巨砲主義です。

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水野 石油は石炭と違って、産出する所は限られています。しかも、メジャーと呼ばれる国際企業が牛耳っていて、そのメジャーがあるのはイギリス、アメリカ、オランダだけ。つまり、持てる国と持たざる国とにはっきり分かれてしまった。すると今度は、石油の獲得をめぐる戦争が始まってしまうのです。

出口 そこから日本は石油を求めて満州進出、南方進出ということになってくるのですね。

船橋 私が第一次大戦で決定的だったと思うのは、戦後処理のためのパリ講和会議に、アメリカのウィルソン大統領が「民族自決」や国際連盟構想などの理想、理念を掲げて登場したことです。

 それまでの帝国主義外交は、基本的にはパワー・バランス、国家間の力関係で決まっていた。それが「理念」、イデオロギーも世界を動かすパワーであることを、アメリカが示したわけです。

半藤 日本はその変化にまるでついていけないんですね。全権首席の西園寺公望(さいおんじきんもち)、次席牧野伸顕(のぶあき)以下、大全権団が送り込まれますが、ほとんど発言できず、しまいには会議にも呼ばれなくなってしまう。

中野正剛の幻滅

船橋 パリ講和会議の理念は何かというと、新たな、より良い世界秩序を建設するというもので、出席国にはそれに加わることが求められていた。ところが日本人はゲームプランがないから、貢献できない。それどころか、自分たちも一緒になってルールをつくっていくという意識そのものが希薄だった。それでものすごい敗北感を持ち帰るはめになったのです。

 特派員として赴いた中野正剛は、日本代表団のだらしなさに怒り、幻滅して、わずか一カ月で帰国してしまいます。そして日本外交を痛烈に批判する『講和会議を目撃して』を書いてベストセラーになりました。この本で中野は、日本は「準備なくして世界の変局に際会し……惨憺たる国運の蹉跌を招」いたとし、「胸中に民族的義憤なし=我国は侵略主義なりや」と題された章では、自国の主張や理念を十分に展開できない使節団を痛切に批判しています。

出口治明(でぐちはるあき)/1948年三重県生まれ。京都大学法学部卒業後、日本生命に入社、国際業務部長などを経て現職。著書に『仕事に効く教養としての「世界史」』(祥伝社)、『「働き方」の教科書』(新潮社)など。

出口 パリ講和会議で難しいのは、本質的にはウィルソン的な新しい外交が主導権を握ったはずなのですが、表面的にはクレマンソーなど帝国主義外交の古強者が動き回って、理念をベースにした新しい外交をねじ曲げたことです。日本は、そうしたヨーロッパの老獪な外交によって、本質が見えなくなったのかもしれません。また日本は国際連盟の規約に、人種差別禁止条項を盛り込もうとして、英米に否定されますね。

半藤 やはりパリ講和会議に随行した近衛文麿は、パリ渡航前年の大正七(一九一八)年に、有名な論文「英米本位の平和主義を排す」を発表しています。英米はきれいごとを言っているが、そんなものは偽善じゃないか、と。結局、戦争から何も学んでいなかった。

船橋 アングロサクソンは普遍的な言葉を使って、自国の利益を優先した互恵関係を演出するのが天才的にうまいんですね。それを偽善と言えば偽善だけれども、国際政治が理想と正義だけで動くはずがない。偽善は戦争よりずっとましだ、という英米的なリアリズムに、日本の指導者は耐えなければならなかったのですが、最後までそれができなかった。

 それに偽善だというなら、残念ながら最大の偽善を主張したのは、日本なんですよ。人種差別禁止を麗々しく掲げながら、朝鮮を植民地にし、中国に対華二十一カ条を押し付けていたわけですから。しかも、中国のウェリントン・クー(顧維鈞)にいかに日本が中国に不当な要求をしているか、という宣伝戦を仕掛けられ、完敗してしまう。

半藤 近衛の主張も、英米の独占はずるい、俺たちにも「持てる国」になる権利がある、という帝国主義の枠を出るものではなかった。英米の欺瞞は指摘できても、それに代わる普遍的な理念は提示していませんね。

船橋 私は、第一次大戦で何が最も新しかったかというと、やはりこの「理念の戦い」が導入されたことだと思うのです。たとえば「民族自決」の理念は、ヨーロッパやアジアといった地域を超えて、グローバルに広がり、ある意味では、百年後の今まで影響を及ぼしています。もうひとつはこの時期に、ロシア帝国が倒れ、ボリシェビキ革命が起きて、もうひとつの「理念」の発信源となる。アメリカとソ連、この二つの「理念」国家が第二次大戦後、冷戦という形でぶつかり合うのですが、その原点はすでにここにあった。

半藤 ただ日本人にも、第一次大戦の意味がわかっていた人もいることはいるんです。たとえば「東洋経済新報」にいた石橋湛山は、大戦勃発のわずか二カ月後にこう言っているんですよ。「この戦争を転機とし、やがて人類の思想、政策に一大革命の期が来るであろう。けだし疑う余地なしと言わざるべからず」と。

出口 そうなると、問題は一種の組織論に還元されますね。優秀な人はいる、しかし、その判断が組織の意思決定に反映されないのはなぜか。これは現代の日本にも通じる大きな問題だと思います。


この続きは「文藝春秋SPECIAL 2015年季刊春号」でご覧ください。

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