昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

野口 悠紀雄
2015/06/09

達人10人が選ぶ教養力増強ブックガイド
野口悠紀雄の3冊 挑戦なしに成長はない

『マゼラン・アメリゴ』『なぜ大国は衰退するのか』『スターリン』

G・ハバード、T・ケイン『なぜ大国は衰退するのか』(日本経済新聞出版社)

 一五一九年九月二〇日、マゼラン(フェルナン・デ・マガリャインス)率いる五隻の船が、スペインのサンルーカル・デ・バラメーダを出港した。目的は、西回りで香料諸島に達する航路を発見すること。しかし、そのような航路が実際に存在するのかどうか、確たる根拠は何もなかった。

 この無謀な航海の動機は何だったのか? 科学的探究でもないし、キリスト教の布教でもない。『マゼラン・アメリゴ』(シュテファン・ツヴァイク著、みすず書房)の冒頭にある言葉「始めに香辛料ありき」が、その答えだ。商業的利益の獲得が目的だったのである。

「大航海」とは、イスラムの領土を通らずに東方貿易を行なえる方法の探索だった。この時代以降、イタリア都市国家によって独占されていた東方貿易にスペインとポルトガルが参入し、思いもかけずに「発見」した新大陸によって、ヨーロッパが世界を制覇する時代が訪れることになった。

 両国成功の原因は、きわめて大きなリスクに挑戦したことだ。ツヴァイクのこの名作は、海峡発見への航海という感動的な物語を通じて、このことを教えてくれる。

 いまの日本にもっとも欠けているのが、リスク挑戦の精神と、それを支える社会構造だ。成長戦略が必要というが、誰もリスクを取ろうとしない社会で、成長が実現するはずはない。

 大航海の成功を通じて、スペインとポルトガルは空前の繁栄を手にした。しかし、栄華は続かず、イングランドとオランダという新興国が代わって台頭した。

 なぜ覇権国が交代したのか? いくつもの説があるが、私がもっとも納得できる考えは、経済学者が書いた歴史書に示されている。近刊では『なぜ大国は衰退するのか』(グレン・ハバード、ティム・ケイン著、日本経済新聞出版社)だ。

 同書によれば、大航海時代に先頭を切ったスペインは、新天地を略奪するだけで、新しい産業を築けなかった。世界最大の銀鉱脈をペルーに見出し、貨幣が大量に増えたにもかかわらず、近代的な科学・技術の発展や生産性の向上に結びつけられなかったのだ。

 同書は、さまざまな国家の栄枯盛衰を分析している。

 例えば、ローマ帝国はなぜ衰退したのか? これも「歴史家の数ほど説がある」と言われる問題だが、「通貨改悪、つまり、通貨価値の切り下げにしか解決策を求めなかったことにある」と同書は指摘する。普通のローマ史では賢帝と言われる皇帝たちの時代において、衰退が進行していた。

 実体経済の生産性を向上させられなかった国は、いずれは衰退する。スペインやローマの歴史は、金融緩和と円安だけで株高が進行するいまの日本が、将来辿るはずの道を示している。

ソ連は特異点か

『スターリン』(サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ著、白水社)は、スターリン時代の戦慄すべきソ連社会を詳細に描いている。この国では、国民一般や戦場の兵士たちが地獄をさまよっていただけでなく、クレムリンの最高権力者たちも、密告と粛清におびえる日々を過ごしていた。ソ連のような国は、人類の歴史における特異点だろうか? 私はそうではないと思う。冷静に考えればありえない社会が、現実に存在した。その事実こそが重要である。存在しただけでなく、ある時期まで、労働者の天国というイメージを外国にむけて発信することができた。もしソ連の実情が知られていたら、戦後世界史は大きく違うものになっていただろう。日本でも、「進歩的文化人」と呼ばれた人々が存在する余地などありえなかったに違いない。

 いまの時代でも、ソ連的社会が再現する可能性は決して否定できない。粛清というあからさまな方法は、インターネットで情報が全世界に伝わる現代社会では、考えられない。だが、もっと巧妙な方法によって、体制批判者が緩慢な社会的死に追い込まれる社会は、十分に考えられる。それを防げるかは、メディアがその危険を自覚するかどうかにかかっている。