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誰からも愛された名クローザー 西武・森慎二コーチの死を悼む

西武時代9年で44勝44敗50S17H ©共同通信社

 6月28日、西武の森慎二一軍投手コーチが多臓器不全のために急逝した(享年42)。25日のソフトバンク戦前に体調不良を訴えて福岡市内の病院に入院し、帰らぬ人となった。

 新日鉄君津(当時)で活躍した頃の姿を知る萩原彦太郎トレーナーは語る。

「一本気で、人当たりが良くて、彼を悪く言う奴はいません。腰痛持ちで『これだけやらないとプロに行けないんで』と、自分で考えた腹筋トレーニングをこなしていました。当時の社会人は金属バット全盛で、何とか防御率を5点台にという時代ですが、彼は都市対抗代表決定戦の準決勝で1失点完投。決勝もリリーフで三振をバンバン奪って、鬼神のようでしたね」

 同年(96年)秋のドラフトで西武に2位指名された森は189センチの長身を活かした角度のある球を武器に1年目からリリーフで活躍。

「自分で考えた練習をしていました。投手ながら、身体のキレを出すためにはティーバッティングが良いんだと、足を広げたり閉じたりして打っていましたね。決め球のフォークも、自分で握り方を研究して、繰り返し練習してモノにした。茶髪の見た目とは裏腹の努力型でした」(元西武スコアラーの前田康介氏)

 その人柄も慕われた。

「松坂(大輔)の面倒をよく見てたのが印象的ですね。兄貴のような存在だった。ニコニコしてて人懐っこく話し掛けてくるから誰もが心を開くんです」(ベテラン記者)

 06年にはデビルレイズに移籍したが、マイナーの試合で3球投げたところで右肩を脱臼。メジャーでは1球も投げないまま解雇。帰国後は、古巣で復帰を目指した。

「『(西武)第二球場で練習させて下さい』と言ってきたんです。『悔しい』『復帰したい』とね。二軍の練習後や遠征中に来て、1人で、ネットに向って投げたり、ランニングしていました」(前田氏)

 09年には独立リーグ、石川ミリオンスターズの選手兼任投手コーチに就任。その後は、監督としてチームを2度、独立リーグチャンピオンへと導き、14年から西武にコーチとして復帰していた。

「故障しても、どんな時もずっと努力してきた。素晴らしい男でした」(同前)

 誰からも愛された名クローザーの冥福を祈りたい。