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先崎 彰容
2017/07/12

技術の粋が凝縮 石井妙子さんの書評が優れている理由

旬選ジャーナル 目利きが選ぶ一押しニュース

source : 文藝春秋 2017年8月号

genre : エンタメ, 読書, メディア

▼〈リレー読書日記〉 『週刊現代』6月10日号(筆者=石井妙子)

 ものを書く仕事をしていると、「書評」を依頼されることがある。本の目利きとして、自分でこれはと思う書物の内容を紹介する。字数は概ね1000字前後。そう多くはない。しかし影響力は意外なまでに大きい。特に、編集者たちは「新聞書評に取りあげられると部数が伸びる」と口を揃える。昨今、読者離れの加速が止まらないとされる全国紙でも、書評だけは別らしい。そう聞くと、原稿用紙わずか3枚程度の文章を書くことが、にわかに難しいものに思えてくる。

 実際、書評は難しい。他人の書評もしばしば読む。自分の意見だけを述べる「内向き」な書評がある。全国紙をつかって一対一で著者に手紙を書いているようなものもある。当然、書評の本来の目的は、一冊でも多く手に取られること、書店に足を向けてもらえる「行動」を促すことにある。つまり、言葉で人を動かそうとするのが書評である。だから、とても難しいのである。

©文藝春秋

 そんなおり、『週刊現代』6月10日号の石井妙子氏「リレー読書日記」が目に留まった。理由は二つ。第一に書評として取り上げた3冊への洞察が優れていること。第二に、書評の文章の流れ方、書き方がうまいこと。前者は内容についてであり、後者が文筆家としての筆力、技術についてということになろうか。もう少し具体的に見てみよう。

 昨今、話題の三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』(岩波新書)は、その題名のとおり、私たちが生きている時代と空間の特徴を考えている。天皇制であれ植民地支配であれ、それは「近代」という時代が、否応なく私たちに課した難題である。「議論による統治」を目指したはずの明るい近代社会は、多くの困難を抱えた「近代」でもあるわけだ。

 石井氏の書評が優れているのは、ここで2冊の本への思いを現代社会に結びつけ、自在に語りだす点にある。まずは柄谷行人編集になる『「小さきもの」の思想』。文春学藝ライブラリーからだされた民俗学者・柳田国男の思想集成だ。この書評が、『週刊現代』に掲載されていることを思いだして欲しい。多くの読者にとって柄谷行人という名前は、必ずしも親しいものではないだろう。配慮に満ちた石井氏の筆は、柳田=柄谷氏が、民俗学をつうじて敗戦をふりかえり、戦後社会とは戦死者をださない社会を目指して出発したにもかかわらず今日、忘却されつつあると指摘する。「近代」や「民俗学」といったキーワードによって、私たちが当たり前だと思って生きている足元の日本=「近代」に気づきを与えようとするのである。

 その筆は、さらに昨今しきりに騒がれているAIにまで及んでいく。「アルファ碁」と呼ばれる、人工知能が世界トップの囲碁棋士を脅かす存在にまで成長してきた。そこから石井氏は、かつて江戸時代以降の日本で囲碁が家元制のもと急速に発展したこと、それが明治以降の近代化の波に飲み込まれ崩壊していく姿を思い描く。昭和13年に日本の近代は極北に達する。なぜなら最後の家元と個人で実力を積み上げてきた木谷実が対戦し、後者が勝利したからだ。これこそ、囲碁の世界における近代の勝利である。

 この亡びていく江戸からの伝統を哀惜をもって描いたのが、川端康成『名人』だと3冊目の本を紹介する。もうお分かりであろう。石井氏は、いつの間にやら私たち読者を最先端のAIの話から川端康成の世界にまで誘ってしまったわけだ。

 近代・民俗学・川端康成など、日々の生活で忘れがちな世界に誘い込む技量。それでいて現実を見失わない平衡感覚。書評は技術の粋が凝縮されたアクセサリーのような輝きを放つべきなのである。

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