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足利尊氏はなぜ、歴史的に冷遇されてきたのか

本郷恵子が『足利尊氏』(森茂暁・著)を読む

2017/08/02
『足利尊氏』( 森 茂暁 著)
 

 新時代をひらいた英雄か、史上最大の逆賊か。足利尊氏の評価は、それぞれの時代の政治的・社会的状況に大きく左右されてきた。とくに明治四四年(一九一一)に政治問題として紛糾した南北朝正閏論争(南朝・北朝のどちらを正統と定めるかについての論争)が南朝正統に決した結果、後醍醐天皇を裏切った尊氏は逆賊とされ、自由な尊氏論は封じられた。戦後、思想的束縛の解かれた状況で、学問の世界では南北朝に注目したすぐれた成果が生まれたが、必ずしも一般に共有されているとはいえない。NHKの大河ドラマでとりあげられたのは平成三年(一九九一)放映の『太平記』一回きりで、たとえば戦国時代がさまざまな角度からくりかえし描かれているのとくらべると、あきらかに手薄である。

 かように冷遇されている足利尊氏の歴史的役割を、実証的に跡づけようとしたのが本書である。筆者は冒頭で、尊氏が後醍醐天皇の没後百ケ日供養の際に納めた願文を紹介する。後醍醐に対する追慕と痛恨の念が記されたもので、尊氏の離反が「逆賊」の一言で説明できるようなものでないことがあらわれている。

 本書において筆者が採用したのは、尊氏をはじめとする「太平記の群像」の人々が発した古文書を、できる限り収集し、検討・分析するという方法である。長期にわたる複雑な動乱の中では、大量の文書が発せられる。なかでも出陣を命令する軍勢催促状は、敵である「凶徒」を「誅伐」せよと貶め煽る文面を持つ。後醍醐天皇は尊氏に対して「凶徒」「反逆」「追討」等の語を連発するが、尊氏の側から後醍醐を指弾する表現は全くみられない。また後醍醐側の忠臣楠木正成に対しても、尊氏は「凶徒」を使用しておらず、両者の心底に通じ合うものがあったことがうかがわれるという。尊氏は意外に繊細で紳士的なのである。

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 創立期の室町幕府は、尊氏と弟の直義との二頭体制で運営された。兄は軍事、弟は政務を担当して、本来将軍が一身に具備する権限を分掌する仕組みは、今日の組織やリーダーについて考えるうえでも興味深い。互いの信頼と敬愛にもとづいた体制であったが、彼らにも観応の擾乱という敵対の運命が訪れる。二人で分担していた文書発給のルールが崩れることが対立の始まりを示唆し、全国を巻き込んだ戦乱を経て、直義の急死(毒殺ともいわれる)で終わる。それでも軍勢催促状の中で、彼ら兄弟が互いを討伐の対象として名指しすることはなかったのである。

 かつて逆賊と謗られた足利尊氏が、実は苦悩と逡巡を抱きつつ動乱に身を投じていたことが、多くの古文書からあきらかにされる。「尊氏見直したよ」とおっしゃる方には、同じ筆者の『足利直義 兄尊氏との対立と理想国家構想』(角川選書 二〇一五)もお勧めしたい。

足利尊氏 (角川選書)

森 茂暁(著)

KADOKAWA
2017年3月24日 発売

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