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連載平松洋子の「この味」

平松 洋子
2017/08/03

日本一の鰻好き・斎藤茂吉の鰻人生――平松洋子の「この味」

©下田昌克

 歌人斎藤茂吉は、無類の鰻好きだった。いや、好きという言葉からハミ出してしまう、空前絶後の鰻アディクトぶり。僕だってあたしだって大好物なんですよ鰻、と手を挙げるひとはたくさんおられようが、茂吉ほど鰻を食べに食べたひとをほかに知らない。

 その破格の行状を明るみに出すのが、『文献 茂吉と鰻』(林谷廣著 昭和五十六年 短歌新聞社刊行)だ。著者は、斎藤茂吉記念館の運営に尽力してきた人物で、斎藤茂吉研究会会長、アララギ会員。いったい茂吉が生涯にどれほど鰻を食べたか、日記や資料を駆使しながら、重箱のすみまでつつきにつついて調べ上げた一大労作である。茂吉の鰻好きはつとに有名ではあったけれど、ここまで微に入り細をうがった調べ物はなく、しかし、「文献」と一歩下がるところが奥ゆかしい。鰻が気になる者として、やっぱりこの本は読んでおかなくちゃ、と古書店で探して入手した一冊なのだった。

 大正十四年、茂吉四十四歳、鰻にまつわる日記抄から始まるのだが、本書は、茂吉を「うなぎ時代」「うなぎ・鰻時代」「鰻時代」「鰻・うなぎ・ウナギ時代」「ウナギ時代」と、短歌や日記の表記によって分けているところが、またシブい。

 最初はそろりそろりと登場する鰻だが、昭和二年になると、元旦から欲望爆発。

 ゆふぐれし机の前にひとり居りて鰻を食ふは楽しかりけり

 翌年、昭和三年には驚くべきことに六十八回も鰻を食べている。正月から三日連続で本懐を果たし、自宅ほか銀座「竹葉亭」、青山「佐阿徳」、浅草「前川」など都内あちこちへ食べにゆく。ちょうど「アララギ」の編集発行人として奮闘、青山脳病院再建のために奔走するなか、茂吉にとって、鰻はエネルギーをかき立てる存在でもあっただろう。

 きみがため白焼と蒲焼の鰻くふかへりみすればみづからのため

 鰻欲はとどまるところを知らない。たとえば昭和十年七月は――。

「〇七月三日 本院ニ行キ廻診ス。非常ニ体ツカル。夜食鰻。〇七月五日 渋谷ニ出デゝ活動写真ヲ一寸ミ、―鰻ヲ食ヒテカヘル。〇七月七日 竹葉本店ニテ午食。〇七月十日 本院ニ行キテ総廻診―渋谷ニ来リテ鰻ヲ食ス。〇七月十五日 活動ノ太平洋攻防戦ヲ見テ鰻ヲ食ツテカヘル。〇七月二十八日 左千夫歌会アリ。夕方鰻」

 具合が悪くても、お粥で鰻。牛乳をかけて鰻。昭和十六年、米英との開戦の臨時ニュースを聞いてから三日連続、道玄坂に出向いて鰻。戦時中は鰻の缶詰を何個もストックしていた(油紙までぺろぺろ舐めた)。

 もろびとのふかき心にわが食みし鰻のかずをおもふことあり

 茂吉の鰻好きは人間臭い。そもそも執念深くて論理的、気が短くてはげしい気性の茂吉がずぶずぶ鰻にのめりこむ。つまり、鰻という業。長男、斎藤茂太著『茂吉の体臭』(岩波書店)に書いてあった話も忘れられない。茂吉は、翌朝の味噌汁の実を女中に前夜言いつけるのが習慣だったが、違う実が入っていると憤怒し、「ダメダ、ダメダ、ダメダ」と少ないときでも三度は連発、癪にさわると六ぺん言い立てて女中を泣かせていたというもの。身内には笑えない話だけれど、これまた鰻と直結する気がするのはなぜだろう。

 鰻と向き合うとき、茂吉を思うと、濃い気持ちが満ちてくる。

 あたたかき鰻を食ひてかへりくる道玄坂に月押し照れり

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