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白石加代子×柄本明「小劇場で笑った思い出」

劇団・早稲田小劇場が人生の岐路となった二人の初対談

 1960年代、前衛劇を代表する劇団「早稲田小劇場」の看板女優だった白石さんとその芝居をきっかけに演劇を始めた柄本さん。演劇界を牽引してきた二人が語る、名演出家の思い出や演技の方法論。 司会・構成◎関容子

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 今回は、強烈な個性をお持ちのお二方の、初顔合せとも言える対談です。

 柄本さんが演劇人生に入るきっかけを作ったのが、「早稲田小劇場」の白石さんの芝居だった、といつか伺って、これは是非存分に語り合っていただきたい、と思いました。

白石加代子さんと柄本明さん ©橋本篤/文藝春秋

柄本 最初に僕がネタばらしというか、お断りしておきますが、僕は「早稲小」のときの白石さんしか、観てないんです。

白石 その後は観てない?

柄本 観てません(笑)。すいません。

白石 いいえ(笑)。

柄本 僕はサラリーマン2年間ぐらいやってて、そのときに、先輩に早稲小に連れてかれて、初めて芝居を観たんです。うちの両親が映画好きで、うちでは映画の話しかしないような親だったんで、映画を観るのは好きだったんですけどね。それでその早稲小は、12月25日あたりでしたかね。寒い日で、どっか裏手から入るでしょ。

白石 そうです。モンシェリという喫茶店の二階が劇場でしたから。

柄本 そこで焚火か何かして、人がずらずらっと並んで。『どん底における民俗学的分析』(1968年)というのを観ました。

白石 ああ、楽日だから並んでたのね。初日のころは、小さい舞台に25人くらい出演者がいるんだけど、お客様は3人とか4人とか(笑)。

柄本 そうですか。でも、楽日は満員で入れなくて、もう一回やってくれることになって、下のモンシェリでコーヒーを飲みながら大勢で待ってました。あの当時、学生運動が盛んなころで、周りを見るとみんな長髪で汚なっぽいアナーキーな、アングラな格好をしてました。でも自分は、髪の毛も七三で、会社の帰りですから鞄持って、ネクタイしめているんですよ。それがものすごく恥かしかったですね。

白石 芝居のほうはどうでした?

柄本 何だかおかしくっておかしくって。音楽に合わせて役者が意味もなく踊りながら出たり入ったりしてましたね。

白石 あそこは客席のうしろに楽屋兼事務所があって、狭い舞台に役者があふれちゃったらそれを客席の花道を通って事務所に退場させなきゃいけない。その時それぞれが音楽に合わせて楽しげに踊りながら移ったらどうか、ということで、やってるほうは別に笑わせるつもりはなかったんですよ。

柄本 観てるほうはおかしかったです。あの劇場、どのくらいの大きさでしたか。

白石 客席は、ぎゅうぎゅう詰めにして150人。それ以上入れたら床が抜ける、と言われてました。舞台は間口が2間半(約4.5メートル)、奥行が1間半(約2.7メートル)くらいでしたかね。それで『どん底における民俗学的分析』ですけど、全部ゴーリキーの原作『どん底』通りの役を振り当てられて、きちっと作りました。私はナースチャの役で。

柄本 女郎の?

白石 そうです。それをまたちょっとひとひねりしましたけどね。代表の鈴木忠志さんのほかに、あのころは創設メンバーでいらした劇作家の別役実さんも劇団員でしたし、関口瑛さんや、役者の創意工夫も加わって、どんどん崩していきましたから。

柄本 最初に台詞言ったのが、高橋辰夫さん。大家の役で。違うかな?

白石 そうそう。

柄本 男爵の小野碩(ひろし)さんが、ルイ・ジューヴェふうにやったりして。

白石 そう、よく憶えてらっしゃるね。

柄本 あれが一番面白かったから。自分の言い方で言うと、ものすごくくだらなくて。褒めてるんです、これ(笑)。

白石 わかるわかる(笑)。でも、呆れて、それっきり観てないんでしょ?

柄本 いえ、『アトリエNo.3 夜と時計』(75年)も観ました。あれはもうそのころ一緒に芝居してた岩松了と二人で行った。そしたら岩松が、芝居観て初めて面白いと思った、って。白石さんが、杉村五十鈴先生の役で。

白石 それは、杉村春子さんと山田五十鈴さんを一緒にした役(笑)。杉村さんも観にいらっしゃった。

柄本 すっごい、くだらないんですよ(笑)。

白石 お褒めにあずかって(笑)。