昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

特集
「戦争」を書く 「あのころ」を問い続ける新世代たち

保阪正康×広中一成「歴史に埋もれた中国兵による日本人虐殺“通州事件”を書いた理由」 #2

 戦後72年。かの戦争体験の声が次第に聞けなくなっている今、証言者たちの“孫世代”の中に、声を拾い、研究を深め、表現をする人たちがいる。

 1978年生まれの研究者・広中一成さんは、1937年に日中戦争の中で起きた「通州事件」を再検証し一冊の本にまとめた。日本人居留民ら225人が殺害された大事件は、なぜ日中の歴史認識に翻弄され、忘れられたのか――。

 昭和史研究の第一人者・保阪正康さんとともに、この事件を今、改めて問い直す意味を語り合っていただいた。(#1より続く)

「この事件は、新聞にでないようにしてくれ」

保阪 事件の経過を追ってみますと、改めて日本はこのような大惨事をなぜ防ぐことができなかったのか、疑問が湧いてきます。

広中 決して「寝耳に水」の事件ではなく事前に反乱が起こることに気が付くチャンスはいくつもありました。事件前日の28日にある日本人居留民は、保安隊員が車などで家財を運び出しているのを見かけています。被災するのを避けようとしたのでしょう。また別の居留民は同じ日に、保安隊員が家の壁にチョークで「△」や「×」のマークを付けているのを目撃しているのです。

保阪正康(昭和史研究家)

保阪 日本人と中国人の住まいが区別できるように目印をつけていたわけですね。

広中 当時の資料を読むと通州領事館警察の分署長が再三、現地の軍部に対して「保安隊に不審な動きがある」ことを訴えています。しかし、油断していたのか、まともには取り合ってもらえませんでした。

 私が驚いたのは、事件発生の1時間前に警察官が、日本軍守備隊兵舎に近づく保安隊員たちを目撃していたことです。連絡を受けた特務機関(支那駐屯軍の指示で保安隊などの指導をしていた機関)は、保安隊の日本人顧問に対してすぐに調査を命じました。しかし、顧問は調べもせずに寝てしまったそうです。

保阪 反乱が起こるとは夢にも思わなかったわけですね。事件が発生してからも失敗は続いています。日本の通州守備隊は天津にいた支那駐屯軍に救援を求めましたが、翌日まで援軍は来ませんでした。この点が長年不思議だったのですが。

広中 支那駐屯軍はこの一報を受けて大きな衝撃を受けているんです。そして意外なところに発想が転がっていく。たまたま天津にいた陸軍省軍務局新聞班の松村秀逸(しゅういつ)が当日の状況を記しています。

〈その報、一度天津に伝わるや、司令部は狼狽した。私は幕僚の首脳者が集まっている席上に呼ばれて「この事件は、新聞にでないようにしてくれ」との相談を受けた〉(『三宅坂』)

 第一報を聞くや否や、援軍の相談ではなく、まず事件を隠蔽しようと考えた。自分たちの失態を隠すことを最優先したわけです。松村は北京に近い通州で起こった事件は、世界各国にすぐに伝わるだろうから隠せるわけがない、と主張して激論になったと記しています。そんなことをしていたので、救援命令が出されたのは、事件から丸1日が経過した30日の午前2時になっていた。

日本人の頭に図式を刷り込む「反中プロバガンダ」に利用

保阪 通州の惨劇は、日本側の初動のミスによって拡大した側面もありますね。松村はのちに大本営報道部長を務めたほどで、情報の流れについては詳しい将校です。現地軍が隠蔽を目論んだにもかかわらず松村の指摘どおり、この一報はすぐに日本国内に伝わり大ニュースになります。生き残った被害者の生々しい証言や写真が紙面を賑わし国民的な関心事になった。

 興味深いのは一度は隠蔽しながら、情報が漏れ出したら一気に方針転換し、軍部はこれを中国への敵愾心を煽るために積極的に利用しようと考えた。その結果、通州事件は、日本人の頭に「中国人=残虐」という図式を刷り込むことになります。

広中一成(愛知大学非常勤講師)

広中 確認したところでは、30日に「讀賣新聞」などが号外で事件を報じたのが、最初の新聞報道です。その後、各紙が次々と詳細を報道していきます。事件発生から10日後の8月8日に『東京日日新聞』が「惨!痛恨の通州暴虐の跡」、『東京朝日新聞』は、「痛恨断腸の地・衂(ちぬ)られた通州」と題して、破壊された建物の写真を掲載しました。

 さらに日本政府は、なんと事件から2週間後の8月12日に外務省の関係団体に英文のパンフレット「通州で何が起きたのか」を作成させています。写真をふんだんに使ったこのパンフレットを在外大使館を通じて各国で配布したのです。日本政府もまた反中プロパガンダとして事件を利用しようとしていたことが窺えます。この時期に、中国人相手だったら何をしてもよい、という雰囲気が生みだされていったのでしょう。

保阪 私が取材した日中戦争を戦ったある将校は、非常に印象的なことを話していました。彼とその部下たちは、中国軍によって手や足を切られた日本兵の遺体を見ながら行軍していったそうです。彼は「それを見た兵隊たちは中国人を憎んだ。その気持ちを押しとどめるようにと、私は言うことはできなかった」と、告白していました。やはり、兵隊たちを戦争に駆り立てる原動力は、この「憎しみ」なんですよね。日本と中国は憎しみと憎しみの応酬になり誰も止められなくなってしまったのです。その原点にはこの事件があったのだと痛感します。