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本田宗一郎が48歳の時に綴った「モノづくりへの渇望とホンダ創業前夜」(前編)

本田宗一郎が48歳の時に綴った「モノづくりへの渇望とホンダ創業前夜」(前編)

オートバイに生き抜いた男の立志伝

2017/08/19

source : 文藝春秋 1955年10月号

genre : ビジネス, 企業, テクノロジー, 経済

note

作業衣ワンダフル

 16歳、小学校高等科をおえると、直ぐ私は東京に奉公に出た。本郷のアート商会という自動車の修理工場だった。好きなことが出来るという事に、私は無上の光栄を覚え、家を離れ父母の膝下と別れることなんか、私は全然悲しく思わなかった。

 それに学校が嫌いである。学問に見向きもしなかったから、上級学校へ行く気など更にない。せめてもましな成績だったのは、工作、図画、唱歌ぐらいだったから、これでは仮にいくら上級学校をと欲ばっても、土台が無理な相談だ。

 行李一つで都会に出てきた私は、自動車をいじれるというだけで、胸をふくらましていた。その油に塗れた作業衣を着た自分の姿を、ビルの谷間から仰がれる狭い空に画き、大いに満悦に浸っていたのだから、誠にいじらしい。

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 ところが現実は、これはまたみじめだった。「子守ッ子」これが颯爽と故郷を後に出て来た風雲兒(?)の仕事なのである。でんでん太鼓を鳴らし、ネンネンコロリヨでは、哀れひとしおだ。作業衣にあらぬ、かい巻姿の私は、

「お前の背中にはいつも世界地図が書いてあるじゃねえか」

「どうも臭えな。ちょっと離れててくれよ」

 と、笑われ馬鹿にされた。

 こと志と違い、私は失望もし、奉公がたまらなく嫌になった。もう止めだ、と投げ出し、何度行李をまとめにかかったか、数えきれぬ。

『おれは自動車のお守りなら寝なくったってやってやる。赤ん坊はギャーギャー鳴くばかりじゃねえか』

 鼻紙に書いて、誰かの眼にとまるようにと、放っておくがその甲斐もない。

後年の本田氏 ©文藝春秋

 しかし、その時の私を引きとめていたものは、……父母の困惑し、怒った顔、それもあった。そして自動車の機械の組立て構造を曲りなりにも毎日眺めていられる、その喜びの方が大きかった。

 苦痛な日々を過して半ケ年、私が自らの手で自動車をいじれる日がやって来た。ある大雪の降った日であった。欣喜した。

「おい、小僧。今日は滅法忙しいや、手伝え。そこの作業衣を着て……」

 待ちに待った晴れ衣を着る日である。「オホッ!」と飛上り、雀躍しながら腕を通し、さていかならんと鏡の前に立つ。仲々よい男ぶりである。が、その実、折角の晴れ衣も、兄弟子のお下りのダブダブで、既に油まみれではあったが。……ほれぼれと見惚れる私に、

「何をしてやがんでえ。早く来て手伝え」

 兄弟子達は、苦笑しながら怒鳴る。

 作業衣といえば、面白い話がある。当時の作業衣は、現在の様にきちんとしたものでなく、外国の輪入品の古物をもっぱら使用し、それは丁度映画のフランスの将校服とよく似ていた。それで期せずして滑稽な場面が、よく繰り拡げられる。

 未だ着用したばかりの頃だったと記憶するが、神田の方へ使いにやられた私は、須田町の角で信号を間違え、巡査にいやと言う程叱られたことがあった。

 ところが、そこへ余り私の帰りが遅いものだから、あの田舎者奴、道でも間違ってうろうろしているのではないか、と兄弟子が探しに来たのである。そしてその時のことが、後々までの語り草となった。

「金モールのついた外国の軍人が、お巡りさんを叱ってるのかなと、思ってヨ、近づいてみたら本田じゃねえか。面喰ったね。大体お前もいけねえよ。怒られてるのに、胸を張ってる奴があるかい。」と。

 別に胸を特に張ってたわけではなかった。作業衣のつくりが、そんな風に出来ていたまでである。日本の警官服には、金モールなどついていないから、間違えるのもこれまた当り前だった。