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文春アーカイブス 色あせない100年分の人間ドラマを読む

本田 宗一郎
2017/08/20

本田宗一郎が48歳の時に綴った「オートバイとレースへの情熱」(後編)

レースでは瀕死の重傷、街ではスピード違反

source : 文藝春秋 1955年10月号

genre : ビジネス, 企業, テクノロジー, 経済

サーカスの団長さん

 昨年、私は英国のマン島で、毎年行われる、オートバイの世界選手権レースを見学してきた。T・Tレース(ツーリスト・トロフィ・レース)と称し、オートバイ界世界最高のものが一堂に会する、伝統的にも、技術的にも有名なものである。

 一周は60キロ、それを7周する。計420キロ、これはほぼ東京大阪間に匹敵する。日本のその辺で見られる競走とは、10桁ぐらい違うのである。

マン島の風景 ©iStock.com

 出場するオートバイの性能も、これまた日本産は問題にならぬ。13000回転(日本では現在普通7500回転)これは1秒間にエンジンが100回は爆発しないと出ない数である。(日本では普通70回位)容積で言うと1リッター当り140馬力(日本では60馬力)以上の力を有しているのである。

 どうしてこうしたエンジンが出来るのであろう。全くの驚異である。そして私がわざわざ視察に行ったのも、いつかは必ずそのレースに日本からも参加し、そして優勝しようと考えたからであるが、当時は、尚前途道遠しの感を抱かざるを得なかった。

 何故なら日本では、オートバイの高速度の研究が全然なされていない。先ずその研究から徹底的に、一歩一歩しあげてゆかねばならなかったからである。

 レースは220キロ以上の速力の勝負である。私が転倒した速度のほぼ2倍だ。文字通り一度事故があれば、死神の口にそのまま飛びこむより他はない。

 私は外国へ行き、高慢の鼻を折られ、同時に新しいかつて見なかった勇気の湧いてくるのを覚えた。それは闘志といえた。必ずスピードに勝ってみせる。そして日本のエンジン技術の優秀性を、世界に、さあどうです、とぽんと示してやろう。

 欧州第一という伊太利のオートバイ工場を見学した時のことだった。そこの専務級の人が、私が日本から見学に来た事を言うと、さも感嘆に堪えぬ調子で、

「ほう、日本にもエンジンが出来るのですかね? 驚きましたね」と言う。驚いたのは私だ。

 戦後の日本再建は輸出からだ。それは日本の製品を売るのみに止まらず、日本の技術の海外進出まで伸長さす必要がある。そのためにも、敗れたとはいえ日本は健全であることを示すことだ。オートバイに関していえば、T・Tレースに出場し、優秀な成績を収めること、それが捷径だろう。

 赤青の縞の帽子に、赤いアロハ姿で、私は先日も、スピード違反で、巡査に捕まってしまった。免許証に印されたスピード違反の記録の数に、その若い巡査もあきれた顏だった。

「今度捕まると免許証を取上げですよ。何故こんなに違反を?」

「そりゃ急ぐ用があるからですよ」

「一体職業は何なのですか。こんなに急ぐ用があるなんて」

「何に見えますかね……」

「その恰好じゃ、サーカスの団長ですかな」

 これにはギャフンと参った。言葉もない。さらばと名刺を出したが、巡査はさらさら信用しない。

「その恰好で社長なんて……それに若すぎますよ」

 最後の言葉だけは気に入った。背広を着たことのない私は、成程未だ若い。確かに若いのだ。しからばスピードレースに出られる資格も、まだ充分あるに違いない。

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マン島レース初参戦マシンと6位入賞の谷口尚巳選手 写真提供:Honda

 この後、ホンダは1959年にマン島T・Tレースに初参戦。さらには1961年に初優勝を飾った。

 この手記でも1954年のマン島見学の衝撃が語られているが、「マン島T・Tレース出場宣言」をしていた本田宗一郎は、まさに有言実行を果たした。

 ちょうどホンダが世界的メーカーとして飛躍した時期でもあった。1957年には東証一部上場、1959年には米国現地法人を設立、1963年には四輪車も発売するなど、グローバルメーカーとしての階段を駆け上っていった。