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辻田 真佐憲
2017/08/24

「安倍政権」と「東南アジア的縁故主義」を比較すると見えてくる“問題点”

旬選ジャーナル 目利きが選ぶ一押しニュース

▼〈続報真相 東南アジア的「縁故主義」と日本 忍び寄る「独裁」の影〉 6月30日、毎日新聞夕刊(筆者=井田純)

 森友・加計学園をめぐる問題で、珍妙な愛国教育が「戦前回帰」と指摘され、官僚の忖度がナチス・ドイツの「先回り服従」などと比較されて久しい。

 こうした歴史の参照はもちろん大切だが、二言目にはやれ東条英機だ、やれヒトラーだとの批判は食傷気味だ。まして安倍晋三政権を叩けるのであれば、どんな強引な歴史の引用でも許されるといわんばかりの言説は、穏健なひとびとの反発を招きつつある。ワンパターンな攻撃は、批判の矛先をかえって鈍らせかねない。歴史を生業とするわたしも、深く自省しているところである。

 そんななか、毎日新聞の特集ワイドの記事にはハッとさせられた。東南アジア諸国の縁故主義と安倍政権のそれを比較検討する、新鮮な試みだったからだ。

 筆者の井田純は、かつて東南アジア諸国に駐在した記者。かれは、東日本大震災の被災地で、ある光景を目にした。それは、安倍昭恵夫人が巨大防潮堤建設計画について見直しを求める住民のシンポジウムや集会にたびたび足を運び、「主人に伝えます」などと発言して拍手を浴びる姿だった。「権力者側と関係を築くことで何かを得ようとする姿が途上国での光景と重な」った。

「桜を見る会」での安倍晋三夫妻 ©文藝春秋

 権力者が身内や取り巻きを重用することを縁故主義という。その対象が身内の場合ネポティズム、取り巻きの場合クローニズムと呼ぶ。これがはびこると、ひとびとは「おこぼれ」を求めて権力者の身内や取り巻きに群がっていく。

 フィリピンでは、旧宗主国である米国の影響で、官僚組織の構築よりも選挙が重視された。その結果、極度の政治主導が進み、ビジネスの許認可権が政治家に集まり、公権力の私物化が生じた。

 1965年から約20年にわたって最高指導者として君臨したマルコス元大統領とその妻イメルダは、その象徴だった。

 同じことは、スハルト政権を経たインドネシアについてもいえるという。

 東南アジア諸国の縁故主義は、独裁政権が倒れた今日でもなくなっていない。市民側にも、違法な行為を見逃してもらえるなど、短期的な恩恵があるからだ。

 日本でも政治家とのコネが昔から利用されてきたとはいえ、さすがに東南アジア諸国ほどではないように思われる。

 だが、フィリピン政治が専門の名古屋大学大学院准教授の日下(くさか)渉は、記事のなかでこう指摘する。

「政治主導による官邸への権限集中で、官僚的手続きの重要性が相対的に低下しました。一方、規制緩和の過程で、市場参入者を選別する権限も政治権力が握る構造が生まれやすくなるのです」

 つまり、これまで正しいとされてきた政治主導と規制緩和が、縁故主義の弊害を日本にもたらしかねないというのである。この指摘はたいへん興味深い。

 考えてみれば、森友・加計学園問題でも、権力者側との近さがたくみに利用された。両学園は、昭恵夫人を名誉職で迎えた。行政機関も、彼女のフェイスブックに投稿された写真などを参照した。

 もっとも、こうした比較検討は、安倍夫妻を日本のマルコスやイメルダなどとレッテル張りすることで終わってはなるまい。必要なのは、さまざまな事例を引きつつ、柔軟に政権批判を行うことだ。

 日本は特別に清廉な先進国ではない。ときに意外な「途上国」とも交差しうる。世界情勢が大きく変わりゆくなかで、地域研究の成果を取り込みつつ、新しい比較の図式を作らなければならない。

 アカデミズムが研究の細分化に悩むというならば、メディアこそがまさに媒介とならねばなるまい。この記事は、そのよき一例として意義があると考える。