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鳥集 徹
2017/08/19

東大医学部vs.順天堂大学 学閥の壁はバカの壁――徹底解剖 日本の大組織

 ナンバー内科・外科、医局講座制、大学純血主義……。おおくの弊害を生み出した「旧体制」は崩れつつある

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「第1、第2外科が連携せず、競争的関係で手術数を伸ばしていた」(毎日新聞2016年7月29日付)

 群馬大学医学部附属病院で、同一医師による肝胆膵(肝臓、胆道、膵臓)の手術を受けた患者が相次いで死亡していた問題で、学外有識者でつくる医療事故調査委員会は7月30日、群馬大学の学長に最終報告書を提出した。

 その中で指摘されたのが、昨年4月に統合されるまで、群馬大学病院では第1外科と第2外科の教室が消化器、呼吸器、乳腺などの手術を重複して行っていたことだった。問題となった肝胆膵がんも、2つの外科が独立して、競うように手術をしていたという。

 複数の診療科が同一の手術を重複して行っていると、当然、限られたスタッフが分散して、手術室や病室なども効率よく回せなくなり、診療体制が手薄になる。また、診療科間に壁があると、それぞれ独自の手術の手技や習慣ができて標準化されず、診療の質が低下する。こうしたことが、今回の問題が起こる背景の1つにあったと報告書は指摘している。

 企業などの組織運営に携わる人たちから見たら、このような極めて非効率な体制が放置されてきたことに、驚かれるかもしれない。だが、これが我が国の「ザ・医学部」なのだ。

 第1内科、第2内科、あるいは第1外科、第2外科といった名称を、医学界では「ナンバー内科」「ナンバー外科」と呼ぶ。実は、この名称が残っていること自体、群馬大学が旧弊(きゅうへい)な医学部組織を引きずっていることを物語っているのだ。

「医局講座制」の非効率

 このナンバー内科、ナンバー外科の起源は、東京大学医学部にある。

 ドイツの権威主義的な医学を手本とした明治政府は、1893(明治26)年に「医局講座制」を導入。これによって帝国大学(現・東京大学)医学部に20の講座ができ、16人の教授が誕生した。その中心を担ったのが、それぞれ第1~第3まであったナンバー内科とナンバー外科だった。

 医局講座制とは、教授を筆頭に、助教授(現在は准教授)、講師、助手(現在は助教)、医員、大学院生、研修医、関連病院の医師らから組織される講座(教室)の構成員が、そのまま医学部附属病院の医局として、一つの診療科を担うシステムのことを指す。

 一般的に診療科は、内科なら「循環器内科」「呼吸器内科」「消化器内科」「内分泌代謝内科」、外科なら「心臓外科」「呼吸器外科」「胃食道外科」「肝胆膵外科」「大腸外科」といった専門分野ごとに分かれている。

 これらの専門分野を、第1外科が「心臓と呼吸器」、第2外科が「肝胆膵」、第3外科が「胃食道と大腸」といった具合に、分担して運営するのが当初の構想だったと思われる。

 ところが、講座の主宰者である教授が大きな権力を持ち、独立性が強くなったことで、講座どうしが互いに干渉せず、交流もしない組織文化が生まれた。第1外科が受け持つ心臓病の患者に胃の病気が見つかったとしても、第3外科と協力して治療するのではなく、すべて第1外科で診るという不文律があったのだ。

 さらには、教授が代替わりするたびに、カバーする専門分野が広がるケースもあった。呼吸器が専門だった教授の後釜に、消化器が専門の教授が就き、残った助教授や講師が、そのまま呼吸器を担うといったことがよくあった。こうして、ナンバー内科やナンバー外科の各講座がカバーする診療の範囲は、無節操に重複していった。

 この超非効率なシステムを各地の大学に移植していったのが、東京大学を筆頭とする「旧七帝大」だったのである。

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