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文春アーカイブス 色あせない100年分の人間ドラマを読む

堀江 謙一
2017/08/14

55年前のヨット単独航海「太平洋横断ひとりぼっち」#2

逮捕も覚悟した命懸けの冒険譚

source : 文藝春秋 1962年11月号

genre : エンタメ, スポーツ, 国際

#1から続く

いつも自分と話をしている

5月29日(火)=第18日

 午前4時、風が少し落ちた。シー・アンカーをあげる。しかし、その重さいうたら、しんどいかぎりだ。「これをあげ終ったら、グリコ・コーラを1本飲ませたるさかいにな」と、自分にいいきかせる。

 セーリングにうつった。だが、すぐに天候はぶりかえす。嵐のつづきだ。

 27日からの疲労がたまって、からだを動かすのがきつい。〉

 ひとりぽっち。でも、いつも自分と話をしている。一人のぼくはグータラで、甲斐性なしだ。もう一人は人使いが荒いけれど、シッカリしている。

「仕事しイや」

「しんどいねん。ちょっと休ませて」

「あかん、あかん。仕事が先や」

「インゴーやなア」

「なんでもええ。はよ、し。すんだら、飯食わしたるさかい」

「さよか。んな、やるわ」

「どや? おいしいやろ?」

「こんなもん、うまいことないがな」

「そないなことあるかいな。うまいでエ。うまい、うまい」

「そうでもないで」

「うまい、うまい。うまいやないか? どうや、うまいやろ」

「フン、そないいわれると、うまいみたい気イするわ」

「そやろ。こんなおいしいもん、よそでは食えへんで」

「うまい、うまい」

 こんなぐあいである。

 

6月5日(火)=第25日

 午前2時、コンパス・カードを見る。おどろくなかれ。進路がNになっている。風が落ちたため、ベアリング・アウェイ(風下をむいての方向転換)したらしい。

 朝食にポーク・ビーンズのカンをあけた。レッテルの絵とはかなりちがって、ビーンズ(豆)が大部分だ。しかし、ほんのちょっぴりしかないポーク(豚肉)の実にうまいこと。これはほんもののポークである。それに、ビーンズだって悪かない。田中君、サンキュー!

 風がでてきた。快走。まったくラクチンだ。この風が切れずに、吹いてくれますよう。

 お母ちゃん。〉

 カンづめのレッテルには、いつもだまされる。しかし、怒ってはいけない。うまい、うまい。カンづめ料理は、ナベを汚さずにすむからいい。食器洗いはイヤだ。それに、スターンから手をのばしてやるので、危い。

 まず、コンロの火に、直接カンをのせる。下のほうが温まったら、さかさまにひっくりかえす。そのままでおくと、沸騰して爆発するから、適当なところで、フタに2つ穴をあける。煮えたらパッととって、カンを切る。実に便利だ。

鉄仮面をかぶったギャングみたいだ

6月7日(木)=第27日

 6月3日にタッキングして以来、快調に走っている。いままでの遅れを、一気にとりかえせた。

 朝食をとっていたら、船底から変な音が聞こえてくる。見ると、フカがなん十匹も船のまわりを泳いでいる。ボートについてくる小魚を食べにきたようすだ。ぶきみなこと。コツンコツンとあたる。力いっぱいぶつかられたら、9ミリしかない底板はバリンだろう。〉

 2メートルから3メートルぐらいのヤツだ。魚というよりは、物体の感じがする。顔がよく見える。実に無表情である。たいていの魚は、ソフトな顔つきをしている。こいつばかりはポーカー・フェース? 目を半眼にして、ジロッと見る。鉄仮面をかぶったギャングみたいだ。ちっともかわいくない。

 船に当たったら、むこうはなんでもなくて、こっちがバリン。そんな気がする。ボートのすぐ横、1メートルぐらいのところを泳いでいる。スーッと進まないで、ピョンピョンとダイビングしながら泳ぐ。ちょいちょい海面から飛びあがる。こわかった。

©iStock.com

6月21日(木)=第42日

 ゆうべのうちに、日付変更線を越えて、西経に入っている。そこで、日付をもう一日のばす。きのうにつづき、6月21日(木)を2度やらせていただく。これでやっと、7分の3きたことになる。〉

 やっと、きた。これでスタート・ラインだ。太平洋横断はこれからはじまる。気をひきしめる。つねにひかえ目に、いつも過小に見つもって……。ワン・ポイント落とす。これがヘコタレないための安全弁である。

 あたらしい心配がはじまる。デイト・ラインを越えると、凪があると聞く。5日から1週間もつづくとか。かならず、くるはずだ。そうだ。スタート・ラインは先に送る。凪を突破してからのことにしよう。