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常井 健一
2017/08/29

永田町「権力の三角地帯」を行く #2

50年後の「ずばり東京」

 政財界の大物や高級官僚、地方の有力者らが列をなして訪れ、官邸以上に強い磁場が働いていた「権力のトライアングル」。バブル期の90年前後、金丸信の事務所では、現金を握って集まった各派の議員たちが麻雀卓を囲んでいた(#1参照)。

 そして、同時期には数々の政治ドラマの現場にもなっていた。

(文中敬称略)


出典:「文藝春秋」2017年8月号「50年後の『ずばり東京』 永田町『権力の三角地帯』を行く」・全3回

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 小沢の場合、TBRの向かいにあった「永田町満ん賀ん」で日付が変わる頃まで打つことも多かった。

「小沢さんは『毎週火曜日は麻雀』と決まっていました」(元小沢側近)

 満ん賀んは、田中派ご用達の料亭として知られ、後の経世会議員たちも夜な夜な芸者遊びに興じた。小沢も1期生の頃から通い、後の若女将と懇ろになっていったそうだ。

 秘書や運転手は店の入り口でチケットがもらえた。それをTBR内のそば屋に渡すと、定食が出てくる。そんな夜が続くうちに、秘書たちの間にも友情や一体感が芽生えた。

 だが、満ん賀んは98年6月に閉店してしまう。現在、跡地には黒澤明の息子が監修する日本料理店「永田町黒澤」があり、ランチには1000円ほどで本格的なそばが食べられる。

 その運営会社は今も十全にある。小沢と親密だった「若女将」と同名の女社長が経営している。

「以前はよく見かけましたよ。細身の方ですよね」(入居者の一人)

 小沢の全盛期も十全と共にあった。小沢は90年6月に完成した新館3階の3部屋、つまりワンフロア(約215平米)を占拠していた。

 ところが、幾ら過去の借主を調べても「小沢」という名は出てこない。代わりに出てくるのは「福田道路」。妻・和子の実家が新潟で営む建設会社「福田組」の関連企業である。

 小沢が十全にいたのは、自民党幹事長時代の90年から、新生党を結成した93年まで。『日本改造計画』を編み、狭心症で倒れたのもその頃。経世会分裂を仕掛けた最中の92〜93年には資金管理団体「陸山会」名義で4階の1室も借りている。

 そんな束の間に、小沢は十全を政治史に残るドラマの舞台にした。

 91年秋、総理の海部は肝煎りの政治改革関連法案を断念すると辞意を表明した。法案に反発した宮澤、三塚、渡辺の3派連合は勢いづき、海部を支えた経世会は揺れる。金丸は「小沢総理」を画策したが、小沢は固辞。10月10日、小沢は十全に3人の総裁候補を呼び出した。宮澤喜一、三塚博、渡辺美智雄である。

 一派閥の会長代行に過ぎない小沢が派閥領袖と順に向き合い、主要政策について問い質した。「小沢面接」として語り継がれるその現場に、渡辺派の事務総長として立ち会った元労相の山口敏夫は振り返る。

「『金竹小』を誰も敵に回そうなんて思わないし、三角大福、今の安倍一強どころじゃないよ。戦後政治の歴史で“最恐”の3人組だった」

パレロワイヤル永田町 ©文藝春秋

 渡辺も一時、パレに4部屋を持っていた。現在、山口はパレの7階に事務所を構えている。ジャージ姿で現れた山口は記憶の糸を手繰り寄せながら当時の様子を語った。

「あれは、金丸には120%の根回しが終わっていて、経世会が渡辺で行こうという流れが決まりつつあった中、最大派閥として『いろんな意見を聞いて決めます』という世間向けに必要なセレモニーだったんだ。新聞はもっともらしく書いたけど、政治家ならではの芝居だよ。場所はどこでも良かったんだ。だがその評判が予想外に悪かった」

 結局すったもんだの末、経世会は宮澤内閣を築いた。金丸は党副総裁に担がれたが、小沢は「面接」が不適切だったとして槍玉に上がり、竹下が可愛がる小渕や橋本龍太郎らライバルとの亀裂を深めた。

 それから1年も経たない頃、竹下と小沢が「最終決戦」を繰り広げることになった。現場はパレ11階だ。

「分裂は絶対だめだよ」

 経世会会長の金丸がオーナーの竹下と会長代行の小沢に言った。3人で話す時は、パレと決まっていた。

 新聞も報じなかった3人だけの極秘会談――。私は唯一の同席者を探し当て、山梨県まで訪ねた。金丸の次男で元秘書の信吾である。

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