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常井 健一
2017/08/30

永田町「権力の三角地帯」を行く #3

50年後の「ずばり東京」

 永田町2丁目には、政財界の大物や高級官僚、地方の有力者らが列をなして訪れ、官邸以上に強い磁場が働く3つのビルがあった(#1参照)。この「権力の三角地帯」は、小沢一郎が総裁候補を呼び出した「小沢面接」、小沢と竹下登の修羅場、そして30億円分の割引金融債(ワリシン)が見つかった家宅捜索など、数々の政治ドラマの現場にもなっていた(#2参照)。

 その後、三角地帯では何が起きたのか。

(文中敬称略)


出典:「文藝春秋」2017年8月号「50年後の『ずばり東京』 永田町『権力の三角地帯』を行く」・全3回

◆◆◆◆

 金竹小が三角地帯から消えると「失われた20年」が到来した。経世会は橋本、小渕と連続で総理を生んだが内紛と分裂が続いた。04年には日歯連事件でTBRの派閥事務所に捜索が入り往年の威光は失せた。ビル自体も外資やブローカーの手に渡り08年に取り壊されたが、跡地の再開発計画も迷走を続けた。

 同時期、議員会館の建て替えが進んだ。山王坂の上空を横切る渡り廊下を通す案が浮上すると、住民たちは猛反対した。「議事堂が見えなくなれば、商売に影響する」などと声を上げた結果、計画は消えた。だが、会館裏の一方通行を解消するため移動を迫られた家屋もあった。

「三角地帯」の脇にある日枝神社 ©iStock.com

 永田町2丁目の風情は一変した。

 そんな中、ある政治結社が十全の5階にやってきた。日本会議だ。

「公務員っぽい方々が資料に埋もれながら作業していて、とても大それた団体には見えなかった」(入居者)

 97年設立で新宗教を淵源とし、4万人を擁する改憲勢力。保守系の国会議員約290人が支える。経世会支配を壊した小泉純一郎の靖国参拝や第1次安倍政権の誕生の後で右派の存在感が高まる中、国会近くに前線基地をひっそりと構えた。

 前出の2代目オーナーに経緯を依ねると、その口から安倍晋三の兄貴分だった大物の名が飛び出した。

「生前、7階に事務所を置いた中川昭一先生の紹介で08年から5階の部屋を借り、1年前に退去しました」

 十全は憲法論議がタブーだった時代から、改憲タカ派やそれを支える宗教右翼の梁山泊でもあった。日本会議がそこに現れたのは、その歴史を繙けば必然だったと思える。

 日本会議は毎年5月の憲法記念日に数千人規模の集会を開いている。一方、同じ日に別会場で改憲大会を開く老舗の結社がある。安倍の祖父、岸信介が設立した「自主憲法制定国民会議」だ。会長を務めるのは、岸が引退後の拠点にした協和協会の専務理事・清原淳平。同協会の本部も00年頃から十全にある。

 現在、協和協会の会長は空席だが、代表代行を岸の孫で安倍実弟の衆院議員、岸信夫が務める。私は岸に話を訊こうと問い合わせたが「清原専務に聞いてほしい」。そこで清原に手紙を送ると5日後に電話があり、会う約束ができた。彼から事前に読むよう勧められた国民会議のウェブサイトにはこうあった。

〈改憲派の中には『現行憲法無効・明治憲法復元』派と、当団体のように『現行憲法を有効とした上で、合法的・合理的な改憲を考える』派との、基本的考え・手段方法も異なる2派がある〉

 これによれば、前者が日本会議の事務方を担う日本協議会・日本青年協議会(日青協)を示すようだ。岸が69年に日本武道館で第1回大会を開いた際、新宗教が力を貸した。日青協の源流「生長の家」教祖、谷口雅春は1万人以上も集めた。だが後年、谷口は岸と折り合いが悪くなる。国際勝共連合(統一教会系の反共組織)が協力を続ける一方、日青協は離れた。今や安倍に近いその一派に、生前の祖父は懐疑的だった。

〈岸信介会長は、そうした考えに対して、それが『改正』ではなく、『革命』に他ならないもので、大体、そうしたやり方に、国民がついてくるかネ、と言われて(略)第2の三島由紀夫事件を引き起こす危険があることを心配しておられた〉(前出のウェブサイト)

 そうした岸の遺志を引き継ぐ清原だが、十全の入口で日本会議の大幹部に会えば挨拶を欠かさなかった。

「一時は協力してもらったんだから。でも、昨年、日本会議のことが本になって注目されたら、パッと引っ越した。危ないと察したんだろう。椛島(有三事務総長)君たちは利口なんだよ。『学生運動に毛が生えた程度』とみんな書くけど、“政権中枢”と繋がってるんだから」

 穏やかな口調で話す清原は、西武の創業者、堤康次郎の秘書から転じて、晩年の岸を補佐した。その間の数年、何者でもない清原の面倒を見たのは十全の初代オーナーだった。