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「アルツハイマーになったら悪いのでしょうか」“認知症の私たち”が本を書く理由

2017/09/10

genre : ライフ, 医療, 社会

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「アルツハイマーになったら悪いのでしょうか」

 こうした言葉の数々は、私たちが日ごろはあまり意識していない「認知症の人への誤解」に気づかせてくれる。私の手もとには、そんな誤解に気づかせてくれた、ある認知症の人から届いた手紙がある。番組を通じて出会った曽根勝一道さんという大阪府の方からだった。その中の一文に、私ははっとして、心が揺さぶられた。「アルツハイマーになったら悪いのでしょうか」とそこには書いてあったのだ。

左上から時計回りに奥公一さん(75)、杉本欣哉さん(64)、曽根勝一道さん(67)、青山仁さん(56)のメッセージ

 認知症と診断を受けるという人生でおそらく最も過酷な体験をされた人に、このようなことを書かせる世の中とは、いったい何なのか。

 さらに、曽根勝さんは、「自分自身が認知症に対して偏見を持っていたんだと気づきました」「病名でひとくくりにされていて、世の中から疎外されているようです」とも書いてくれた。認知症と診断された人を苦しめていたのは、アルツハイマー病という病気そのものではなく、社会の目、視線であると言うのだ。

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「認知症になったら終わり」という世の中の見方。それによって自分が自分を苦しめてしまう。そんなことが、日本全国でいま起こっている。

「徘徊」「暴力」「妄想」……「早期診断・早期絶望」とのたたかい

 世の中には、「認知症になったら終わり」と言わんばかりの情報があふれている。ためしに、お近くの図書館に出かけてみてほしい。「認知症」もしくは「介護」のコーナーに並んだ本の中には、「徘徊」「暴力」「妄想」といった言葉が躍っていることだろう。

 これを、認知症と診断されたばかりの人が読んだら、どう思うだろうか。そんなことは全く考えずに、介護者の視点、専門家の視点から、認知症について書かれた本がほとんどなのだ。

 手紙をくれた曽根勝さんがよく通ったという図書館を一緒に訪ねたときのことが忘れられない。認知症に関する本が置いてあるコーナーに行って、本を手にとって見せてくれた。「徘徊が始まります」「暴力をふるうようになります」「妄想が出てくるかもしれません」と書いてあった。これを書いたのは、他ならぬ専門職、おそらくは認知症の専門医と呼ばれる人たちだ。医師の前に現れる人たちは、確かにそうなのかもしれない。でも、こうした偏見に苦しみ、医師の前にさえ行くことができない人が、世の中にはたくさんいるのだ。読む人の気持ちをまったく考えていない、そればかりか、正確な情報を伝えていないような “認知症の専門書”の数々が世の中に出回っているのだ。専門職が知っているのは、認知症のひとつの側面でしかない。これからは、認知症のことを認知症の人に教わることが何より必要だ。

曽根勝一道さんから届いた手紙。「私はこの病気からはにげられないけれども、妻や友人の支えでおだやかにすごせています」「少しでも偏見をなくすために、これから私だからこそ言えること、私しか言えないことを伝えて行こうと思っています」

 いま、認知症当事者の本の刊行が相次ぎ、ブックフェアまで開催される背景には、こうした認知症への誤解を解きたい、という本人たちの思いがある。同時に、いまや“あたりまえ”のことになっているにも関わらず、それを誰にも言えなかったり隠したりする人たちがたくさんいて、そういう人たちが、情報を求めている。

 これまで認知症は、医師や専門職の目から見た、脳が萎縮する“病気”ととらえられてきた。これはいわば、「医学モデル」である。これに対して、当事者たちが反旗を翻し、認知症とともに生きる、という視点、いわば「社会モデル」でとらえて欲しい、と声を上げているのである。

「大丈夫だと言って欲しかった」という曽根勝さんの言葉がとても衝撃的だった。それを言ってくれる人はいないのか、と。認知症を、医学的な所見からみて、アルツハイマー病などと診断することに、どれだけの意味があるのか。認知症になってからの人生をいかに豊かにするか。それが大事なのではないか。当事者たちが、そう訴えている。

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