昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

島内 景二
2017/09/11

わたしの好きな佐藤正午──佐世保という文学の繭

村上龍、佐藤正午を生んだ高校の同窓生が“謎の作家”を読み解く

 多くの人にとって、佐藤正午は謎の作家だと思う。その謎は、彼が長崎県佐世保市をほとんど離れなかったことに原因がある。彼は佐世保という繭に籠もり続けてきた。

 JR佐世保駅に、「日本最西端」と書かれた標柱がある。つまり、アジアやヨーロッパに最も近い港町なのだ。多国籍であると同時に、無国籍とも言えるマージナルな空間。

 佐世保に、オランダの街並を再現したハウステンボスがあるのも、その延長線上にある。敗戦直後には、大陸からの引揚者や、南方からの復員兵たちが「佐世保の浦頭埠頭(うらがしらふとう)」に上陸し、これからの人生で、自分が日本人であることの意味を知ろうとした。日本文化のアイデンティティを求めた乙川優三郎『脊梁山脈』も、浦頭から始まっている。

 佐世保は、近世までの歴史を持たない。伝統と切り離されている、とてつもない自由さ。その代償のように、近代の宿命である戦争の影が付きまとう。大陸進出のための軍港として、佐世保は大いに発展した。

 日露戦争の命運を決する日本海海戦に向け、聯合(れんごう)艦隊は佐世保を出港した。太平洋戦争開戦の暗号「ニイタカヤマノボレ」を中継送信した針尾無線塔も、佐世保にある。

 戦後も、朝鮮戦争とベトナム戦争で、佐世保は軍事的に機能した。一九六八年、海軍鎮守府跡と目と鼻の先の海軍橋で、全学連と機動隊が激突し、エンタープライズ寄港阻止闘争を繰り広げた。戦後体制は、近代のために作られた佐世保で、終焉の時を迎えた。

 戦争と破壊をくりかえす近代文明に対して、軍港という人工都市が拒否反応を示し始めた。私たちは近代人である以前に、人間である。人間に戻りたい。では、人間とは何か。近代以前を知らないことを逆手に取って、人間の本質探しを行う実験空間。それが、佐世保という繭なのだ。

©石川啓次/文藝春秋

 そして、何かが新しく始まった。海軍橋からすぐ近く、八幡台という丘の上に、佐世保北高校がある。高校三年生で、学生運動の渦中にあった村上竜之助は、後に村上龍という小説家になり、『69』を書いた。高校生群像の喜怒哀楽に、戦後日本の「死と再生」が象徴されている。

 当時、中学生だった私は、村上の振る舞いや生徒総会での発言を、生徒会書記だった高校生の兄から、つぶさに聞いていた。村上が、無意識のうちに戦っていたのは、戦争と裏合わせになっている「近代」というラスボスだったのではなかったろうか。

 私が佐世保北高校に入学したのは、その2年後だった。既に熱気は去り、かと言って新しい未来は訪れず、「三無主義・四無主義」の青春があった。佐藤謙隆とは、学年は同じでもクラスは別だったので、人生や文学について話した記憶はない。彼は、寡黙な優等生だった。その心に、彼が大きな「敵=自分自身」を抱えていたことは、わからなかった。

 佐藤謙隆は、高校を卒業してから、北海道大学に進学したが、まもなく中退し、佐世保に戻ったと聞いた。佐世保を生活の本拠地と定めることで、日本と自分との本当の姿を知ろうとしたのだろう。彼は佐藤正午という小説家となり、『永遠の1/2』で颯爽とデビューした。その後も、佐世保に留まった。

はてなブックマークに追加