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佐藤 正午
2017/09/15

佐藤正午〈直木賞受賞〉自伝エッセイ──心の準備は必要か?

デビュー作から直木賞受賞までの軌跡

©文藝春秋

 二十年ぶりの書き下ろし小説とか作家生活三十四年目とか、版元の広告にしても今回の受賞を伝えるニュースにしても、小説家のキャリアをというより年齢を遠回しにアピールして、この人はね、お年を召されてるんだぞ、失礼があってはならないぞ、お年寄りにはそれなりの敬意を表さなきゃだめだからね、みたいな空気を醸し出そうと頑張ってくれている模様なので、その空気を読んで、ここではせいぜい昔話に花を咲かせたいと思う。

 なお、聞くところによると、ネットの片隅では、受賞決定の夜の電話会見をネタにして、年のわりに声が若いとか、あれはちょっと酔っぱらってたんじゃないかとか、写真を見たが六十一であのサラサラした黒い髪はないだろう、カツラじゃね? とか囁かれているらしいけれど、それに対しては、たとえそうだとしても、めでたい受賞の夜に酒を飲んで何が悪い、カツラのどこが悪い、な? と言っておきたい。あと、その話を僕に伝えてくれた人は、正午さん、こんな噂は気にしないほうが身のためですと言って笑ったのだが、だったら最初から伝えないで欲しい。

 

 ではいきます。

 時は昭和五十年代、最初の本『永遠の1/2』が出版されるまでの経緯から。

 といってもその種の思い出話は(なにしろ作家生活三十四年目だから)これまでいろんなところで何度も書いているし、新たに付け加えることもないようなので、二〇〇九年に出た『正午派』という本に収録された年譜、無駄なく簡潔にまとめられた、これ以上は望めない完璧な年譜から、以下引用します。

 

 一九七九年秋、大学を中退して佐世保に帰郷。

 一九八一年五月、佐世保で長編小説を書き始める。パイロットの万年筆で、コクヨの原稿用紙に。目標、文芸誌「群像」の長編小説新人賞。ところが書いているあいだにこの新人賞が消滅。他に長編小説を募集している出版社はなく、一時目標を見失う。でもまあ、書けば何とかなるかもしれない、と思って書き続ける。

 一九八三年三月、長編小説を書き上げ、文芸誌「すばる」のすばる文学賞に応募する。規定の枚数は250枚以内のところへ、応募作はおよそ700枚。ルール違反を承知で原稿をカステラの箱に詰めて送ってみた。ペンネームは佐藤正午。応募時のタイトルは『女は箒に跨がって飛ぶ』。

 同年八月、集英社から電話がかかり、最終選考に残ったことを知らされる。(中略)書けば何とかなるものだな、とあらためて思う。応募作のゲラ刷りが郵送されてきたのは28歳の誕生日の朝だった。

 同年九月、ゲラ刷りに手を入れたものを持って上京。(中略)おもに小説のタイトルの変更について話し合う。結論出ず、佐世保に戻ったのち、電話で『永遠の1/2』という新しいタイトル案を提案される。

 同年十月、第7回すばる文学賞を受賞。

 同年十一月、授賞式出席のためふたたび上京。

 

 授賞式の式次第は何も憶えていないけれど、パーティーで声をかけていただいた先輩作家の顔はふたつ、懐かしく思い出せる。ひとりは今回の直木賞の選考委員なので、何を書いてもヨイショしてると誤解される心配があって伏せるが、もうひとりは森瑤子さんで、会場の隅から手招きで呼ばれて、隣の椅子にすわらせてもらい、ほんの数分だが、優しいアドバイスを素直な気持ちで聞いた。

 同じ夜、二次会の席で会った大物の顔もふたつ、強烈に印象に残っている。富島健夫さんと井上光晴さんで、おふたかたとも、真心から、熱心に、初対面の新人に忠告してくれているのはわかるのだが、それが僕にはぜんぶ脅迫に聞こえた。特に井上光晴さんの、なんというか、アクの強い、迫力のハンパない、えんえんと続く、そばにいるのにそんなに声を張らなくても、というくらいの大音声の弁舌には衝撃をうけた。はい、気をつけます、はい、と畏まって聞いているうちに、「なんだかおまえ、頼りないなあ、ちゃんと聞いてるのか!」と絡まれて(もちろんみんな酔っているのだが)胸ぐらつかまれるかと思ったら、テーブルのビール瓶やグラスが倒れて僕の新品のスーツのズボンがびっしょり濡れて、そのときだけ井上さんの声のトーンが下がり、あ、すまん、だったか、ごめん、だったか謝ってもらった。

イラストレーション:フジモト・ヒデト

 二次会では他にもさまざま、当時の、東京の出版業界関係者の豊かな個性に触れるというか毒気にあてられるというか、呆気にとられる出来事が頻発し、新人はものを言う気力もなくした。見るに見かねて(だったろうと思う)担当の若い編集者がその場から救い出してくれて、ラーメンおごってくれて、今夜でもう、東京に出て来る気はなくなったでしょう? と訊ねるので、はい、とキッパリ答えると、

「だいじょうぶ。佐藤さんなら、佐世保にいてもやっていける。東京に来る必要なんかない。じつはね、今回の応募作、ゲラで早めに読ませてもらって、万が一落選していたとしても、僕は佐世保まで会いに行って、出版の相談をするつもりでいました」

 と言った。言った本人は忘れているかもしれないが、どんな言葉よりも嬉しかったから、三十四年後のいまもしつこく憶えている。

 

 で、僕は佐世保で小説家として出発した。