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東 浩紀
2017/09/10

近ごろのデモは何と戦っているのか――対象が「権力」から「人民」に変わるとき

旬選ジャーナル 目利きが選ぶ一押しニュース

▼〈アメリカ・シャーロッツビルに白人至上主義者が集結 その背景と経緯、そして今後〉8月14日、ヤフーニュース個人(筆者=明戸隆浩)

 デモはかつて人民が政府に抵抗する手段だった。いまやデモは人民の分断を象徴する現象になっている。先日アメリカで起きた事件は、その変化を象徴するものだった。

 日本でも大きく報道されたように、去る八月一二日に、バージニア州シャーロッツビルでヘイトデモとカウンターデモの衝突が起きた。市議会が南北戦争の英雄像を市内の公園から撤去すると決めたことに抗議するため、白人至上主義者が同市に集結、それに抗議するリベラル側市民も集結し、大規模な衝突となったのである。そのなかで二〇歳の青年が車でカウンターデモに突入、死者まで出てしまった。

 社会学者の明戸隆浩が一四日に早くも発表した記事「アメリカ・シャーロッツビルに白人至上主義者が集結 その背景と経緯、そして今後」は、事件の背景と課題をコンパクトにまとめている。アメリカでは事件後、政治家や識者からヘイトデモへの非難が相次いだ。バージニア州知事のマコーリフは、即座に「アメリカに君たち(白人至上主義者)の場所はない」と声明を出した。記事はこの対応を高く評価している。執筆者の明戸は日本のヘイトスピーチ事情に通暁し、カウンターデモにも参加している専門家。日本でも排外主義は高まっているが、社会の反応は薄い。与党政治家には嫌韓感情を隠さない人物もいる。記事にはそんな国内状況への苛立ちも滲む。

衝突が激化し、非常事態宣言が出される事態に ©getty

 排外主義に対しては、決然と否を唱えなければならない。ぼくはこの点について記事と完全に同意見である。

 しかし、そのうえで、問題はいまやもう一段複雑なようにも思う。冒頭で記したように、デモはかつて権力に対して行われるものだった。敵は権力だった。だからこそデモは「一般意志」の表明として、民主主義の源として尊重されてきたのである。

 いまでも多くのデモは権力を対象としている。けれども、注目すべきはいま先進国で新たなタイプのデモが台頭していることだ。そこではデモは人民が人民を攻撃するため行われる。八月一二日にシャーロッツビルで見られたのは、まさにそのようなデモである。白人至上主義者の攻撃対象は、リベラルな市民社会そのものである。他方のカウンターはそんな彼らに攻撃の矢を向ける。敵は権力ではなく、人民自身なのだ。

 人民が人民自身を敵と見なす事態。一般意志そのものの解体。それがいま先進国で起きつつあることである。それは昨年のブレグジットと米大統領選、五月の仏大統領選と続いた政局でもはっきり現れている。

 この事態への対応はむずかしい。リベラル勢力は多様性の理念の貫徹こそが解決の道だと訴えるが、どこまで貫けるかは心許ない。そもそも、「移民は出て行け!」と叫ぶ人々に対し「そんなおまえが出て行け!」と叫び返す行為は、いつなんどき暴力に転じるかわからない。実際に今回も事件後、アーカンソー大学の教授がヘイトデモ参加者と誤認され、SNSで住所を特定され脅迫を受けるケースがあった。

 ヘイトとカウンター、どっちもどっちだと言いたいわけではない。多様性と排外主義を同列には比較できない。寛容は非寛容よりも論理的に上だ。しかし、すべてのひとに寛容になれというリベラルの命法が、あまりに理想主義的で非現実的であることもたしかである。世の中には必ず犯罪者がいるように、一定数の差別主義者や排外主義者も必ずいる。それが現実というものであり、SNSはそれを可視化しただけだ。そのような現実とどう「共存」するか、民主主義には新しい知恵が求められている。