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大竹 弘二
2017/09/18

“行政権力の肥大化”が“ヒトラー独裁”を生んだ――学校では学べない世界近現代史入門

福祉国家たらんとしたヴァイマル共和国で、議会制民主主義への不信が高まっていたのはなぜか?

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 1933年1月30日、ナチスの党首アドルフ・ヒトラーが、大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクによってドイツの首相に任命される。もっともこの時点では、まだナチスが国会で単独過半数の議席を有するには至っていなかった。ヒトラーはこの状況を打開するため、首相就任後ただちに国会を解散して総選挙に打って出る。だが、同年3月5日に行なわれた選挙でもやはり、ナチスが過半数の議席を獲得することはできなかった。

©文藝春秋

 この期待外れの選挙結果を受けてヒトラーが打った次の手が、同年3月23日のいわゆる全権委任法である。これは国会に代わって政府が法律を制定することを認めるものであり、これによって国会は事実上、立法府としての役割を奪われることになった。こうしてナチス体制のもと、近代国家の原則である立法府と行政府の権力分立は廃棄され、議会制民主主義は独裁へと道を譲ることになったのである。

 行政府が立法権を手中にする全権委任法は、ナチスによって議会政治と法治国家が蹂躙(じゅうりん)されたことを示す顕著な例である。だが、議会制民主主義のこうした破壊は、すでにナチス政権に先立つ共和国時代から準備されていた。

 第一次世界大戦後のドイツの共和国は、ヴァイマルに召集された憲法制定国民議会が1919年8月11日に新憲法を採択したことで正式に発足する。このいわゆるヴァイマル共和国憲法は国民による大統領の直接選挙、男女普通選挙、民意を忠実に反映する完全比例代表制、国民からの請願に基づく国民投票制度などを導入し、当時の世界でもっとも民主的かつ先進的な憲法とみなされていた。

 しかしながら、ヴァイマル共和国のあまりに民主的な制度が、かえって民主主義を不安定なものにしてしまったということは、すでに繰り返し指摘されているところである。完全比例代表の選挙制度は国会での小政党乱立をもたらし、多数の政党が寄り集まった短命な連立政権がヴァイマル期を通して続くことになる。このように政治的リーダーシップが欠如した状況のなかで、特にドイツが極端なハイパーインフレーションに苦しめられた1920年代前半には、旧軍人らを中心とするカップ一揆(1920年)やナチス党によるミュンヘン一揆(1923年)、あるいはドイツ共産党による蜂起・クーデター計画(1921、1923年)など、左右両翼の過激派による共和国打倒運動が頻発するのである。

 1923年末までにはハイパーインフレーションは終息し、以後、1929年10月に世界恐慌が勃発するまでの短い間ではあるが、ヴァイマル共和国は「相対的安定期」と呼ばれる比較的平穏な時代を迎える。しかし、不安定な政治状況が本質的なところで解決されたわけではなく、議会政治の混乱と機能不全に対し、多くの人々が苛立(いらだ)ちを募らせることになる。