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映画「ワンダーウーマン」から読み解く「社内事情あるある」――ダイアナの正体は花咲舞だった!?

サブカルスナイパー・小石輝の「サバイバルのための教養」

2017/09/24

女の“自己実現”を支える男の“自己犠牲”

 映画「ワンダーウーマン」の示す答えは、「女性の突破力の真価を理解した男性が、あえて女性の踏み台になること」。つまりこの映画、女性の自己実現物語であると同時に、男性の自己犠牲物語でもある。特に男に対して、「強い女の踏み台になるのも、なかなか気持ちがいいものですよ」と巧みに訴えているのが、女性監督パティ・ジェンキンスのしたたかさであり、ヒットした最大の要因とも思えるのだ。
 
 そうした構図が最初に明確になるのが、ダイアナとスティーブが密命を負って戦場へと赴く場面(ここ、ちょっとだけネタバレします。ご容赦ください)。

 第一次世界大戦では、機関銃など新兵器の登場により、敵陣を正面突破しようとすると膨大な損害が発生。敵味方とも横に長ーい穴(塹壕)を掘って延々とにらみ合いせざるを得なくなり、膠着状態の中で死者だけが累々と積み重なっていった。この作品における「戦争」とは、閉塞しきった現代社会のメタファーに他ならない。

 この「塹壕戦」を初めて目撃したダイアナは、「なぜ、戦って彼らを救おうとしないのか」とスティーブに詰め寄る。だが、こうした状況に慣れっこのスティーブは「この戦線は、1年間戦っても2ミリも動かない」「おれたちにできることは何もない」と足早に立ち去ろうとする。会社の理不尽な空気を延々と呼吸し続け、それに対する疑問や反抗心が麻痺してしまった男性社員代表がスティーブ、というわけだ。

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 ダイアナは「こうした状況を前に何もしないのは、戦士のやることではない」と剣を取り、「ワンダーウーマン」と化して戦場に突進していく――。

©2017 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC.AND RATPAC-DUNEENTERTAINMENT LLC

 この場面のカタルシスは半端ない。正直、背中がゾクゾクしました。

 男性ヒーローが同じシチュエーションで立ち上がっても、すれっからしのオヤジたちは「青っぽい正義感だねえ」「現実には無理無理」などと白けてしまうことだろう。私たちが感じている「女性ならばこの閉塞した状況を変えられるかも」という期待感を、作り手たちがうまくすくい取ったからこそ、このシーンは圧倒的な解放感をもたらすのだ。

 で、ダイアナの活躍に勇気づけられたスティーブたち男性も敵陣に向かうのだが、ここで注目するべきは、スティーブは終始ダイアナのサポート役に徹し、戦いのクライマックスでは自らの身を投げ出して、ダイアナが敵の本拠地へとジャンプするための「踏み台」になることだ。

 なぜ、スティーブは踏み台にならねばならないのか。
 
 ダイアナのような「突破力ある女性たち」にありがちな弱点は、「身近な人々に共感するあまり、世界を俯瞰して冷徹に観察することがおろそかになりがち」なことだ。それはまさに、ダイアナの「悪の神を倒せば平和が訪れる」という単純な世界観と呼応する。

 しかし、この複雑怪奇な会社や社会にあっては、単純な世界観ではすぐに足元をすくわれてしまう。「突破力ある女性たち」がその真価を発揮するには、「複雑でゆがんだ会社・社会の現実を十分に理解し、それが仕掛けてくる罠に対抗できる優秀な男性」のサポートが必要なのだ。劇中、ダイアナの単純な世界観が打ち壊された後にこそ、彼女が最もスティーブの助力を必要とするように。

©2017 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC.AND RATPAC-DUNEENTERTAINMENT LLC